君の隣
キッチンの湯気が、なんとなく落ち着かない。

 ミルクパンで温めているのは、拓実が淹れた豆乳ココア。

 理名の好物のはずなのに、彼女の手はあまり進まなかった。

人工授精を終えた日の夜から、もう3日が経っていた。

「……仕事、無理しないでって言ったじゃん」

 拓実の声はいつもと同じトーンなのに、どこか探るようだった。

理名はソファに座り、クッションを抱えたままテレビの音に逃げていた。

 病院のスタッフが登場するドラマが流れている。

 内容はまったく頭に入ってこない。

「……大丈夫だよ」

 その言葉が嘘じゃないことは、理名自身もわかっていた。

 ただ、心がどうにも“空白”だった。

期待するのも怖いし、期待しないふりをするのも疲れる。

昼、カフェに立ち寄った。

隣の席の女性が小さな赤ちゃんを抱いていた。

 目が合うでもなく、ただ視界に入っただけなのに、なぜか心がずしんと重くなった。

──どうして、あんなふうに自然に抱けるのかな。
──私は、ちゃんと“そこ”にたどりつけるんだろうか。

隣では拓実が静かにスマホをいじっている。

 何かを検索しているようで、ちらっと画面が見えた──
『胚移植 二回目 妊娠率』

理名は小さく笑った。

 自分だけじゃなくて、彼も彼なりに“結果が出なかったとき”を考えている。

 口に出さなくても、ふたりの不安はしっかり隣り合わせにあった。

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