今、鐘が鳴る
その年の4月から、私は東京の天花寺(てんげいじ)家に住み込みでお世話になった。

日夜、恭匡(やすまさ)さんから書を学ぶ……結局、書って反復練習だから、ひたすら書き続けるしかないのだけれど。
恭匡さんのみならず、今まで見せていただいたことのないご先祖様の書もお手本にさせていただいた。

「書道の専門学校に入学した気分だわ。」
墨を摺っては書き、摺っては書き……こんなに頑張ってたら不器用な私もさすがに習得できそうな気がする。

晴れて名実共に私の婚約者となった碧生(あおい)くんもまた、恭匡さんから書を習い始めた。
……口惜しいけれど、頭の良さとか器用さも書に関係あるのかしら……私のほうがはるかに長い時間を書のお稽古に費やしているのに、碧生くんのほうが上達していた。

「習得速度を競い合っても意味がないよ。僕だってまだまだ足りないと思ってるんだから。」
恭匡さんは、慰めてくれるのか、ハッパをかけているのか……とにかく、私がくさってサボることを許さなかった。

そう言えば幼少時から、恭匡さんは暇さえあれば筆を持っていた気がする。
「日々精進するしかないのね。」

惰性で大学に行くよりも大変だけど、はるかにやりがいがあった。
何より、毎日碧生くんに逢えることが幸せだった。



お茶のお稽古に、由未さんと3人で通うのも楽しかったけれど……それも程なく2人になった。

立ったり座ったりの動作が多いお茶のお点前は、肺高血圧症の由未さんにはつらいらしい。

……私では何の支えにもならないけれど、理解して少しでも助けてさしあげたと願っている。






6月半ばの日曜日、碧生くんと大阪の岸和田競輪場へ急遽、駆け付けた。
高松宮記念杯というG1(特別競輪)の決勝戦に、泉さんだけでなく水島くんも勝ち上がれたのだ。

「中沢さん!どうしよう!」
興奮してはしゃぐ私達と対照的に、中沢さんは土色の顔をして震えていた。

「やっと、やっと、しょーりが馬付きで特別(競輪)の決勝だよ。今度こそ……」
泉さん本人より間違いなく緊張してらっしゃるだろう。

碧生くんと私は金網に張り付き、中沢さんはスタンドの上のほうで決勝戦を見守った。
「水島ー!水島ー!水島ー!」

スター選手に対する応援と歓声と野次のるつぼで、碧生くんはお友達の名前を必死で呼び続けた。

水島くんが師匠である泉さんを連れて先行する気満々でも、ラインが2車と短く、他の選手のほうが2人より脚力があるので、あっさり捲られると、テレビも新聞も予想していた。

せめてもう1人いれば……。
< 147 / 150 >

この作品をシェア

pagetop