エリートな彼と極上オフィス

「先ぱ…」

「俺は苦労なんか、かけられてなかった」



急にはっきり喋りだしたので、またびっくりした。

見ないようにしていた顔を、思わず覗きこんでしまう。


シンクの底を見つめる瞳には、予想したような涙はなく、ただ確かにそれは熱っぽく潤んで、先輩は唇を噛んでいた。

うるせえんだよ、と。

吐き出すように、誰にともなく言って、拳を流し台に叩きつける。


重ねてあった食器が危うい音を立てた。

私はびくっとした。


立ち去るべきかもしれない。

私がここにいると、先輩が気づく前に。


それに、こんな先輩は。

見ているのもつらい。


そろりと玄関のほうへ身体の向きを変えようとした時、積まれていた食器のひとつが、滑り落ちるのが見えた。

あっ、と思った瞬間には、床に破片が散っていた。


目の覚めるような残響。

先輩と視線がかち合う。



「…あの」



先輩の表情は妙に普通で、それが逆に奇妙だった。

はねた水滴が茶色い前髪に光っている。

シンクの水は、最大量で流れ出るまま。


穴が開くほど私の顔を見つめているわりに、その奥の脳が動いている印象は受けなくて、明らかに先輩はおかしい。

千明さんがネクタイを外したりあちこち緩めたりしていったせいで、見た目が不必要に退廃的なのも困る。


ふらりと彼がこちらによろめいたように見えて、とっさに差し伸べた手を引っ張られた。

気づいた時には長い腕の中にいて。

その一瞬後には、唇が重なっていた。



(え)



ぐいぐいと押しつけるようなキスに、逃げることも叶わない。


ええと。

これは。


考えたくないけど…誰かと間違えてるんだろうか。

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