ビタージャムメモリ
歩くんが、悔しそうに唇を噛むのが見えた。

かわいそうに、今、歩くんは、どこにも気持ちのやり場がない。



「説得しないんじゃなかったのかよ」

「しねーよ、お前がどう決断しようが、俺は知らん、じゃあな」



ひらひらと手を振って、前川さんは部屋を出ていった。

歩くんは下を向いたまま。

先生が手を伸ばし、その頭をなでる。



「歩、前川の言ったことは気にしなくていい。だがもし、少しでも音楽を続けたいという気持ちがあるなら、さっきの話を考えてみてくれ」

「そんなに俺を、そっちに進ませたいわけ」

「そうじゃない。だがお前には実際、才能がある。表舞台に立たなくても、それを活かす道はたくさんある。そのどれもに、今回の話は役立つはずなんだ」

「だから、俺を捨てた女に尻尾振れって?」



歩くんが、先生の手を払いのけた。

顔を上げると、憎しみのこもった目でにらみつける。



「できるわけねーだろ! そこまで打算で生きてねえよ。そうしたほうが得ってのはわかったよ、でも俺には無理だ、絶対に」



ふたりの視線が絡んだ。

先生は歩くんの激昂を浴びても、落ち着いていた。



「もしこれが、姉さんと無関係な話だったら?」

「えっ…」

「だったらためらわず乗れたか? お前が今、拒絶してるのは、一生音楽を続けていく覚悟が持てないからじゃないのか」



その声に、責める響きはない。

あくまで諭すような、導くような、そんな口調だったけれど、歩くんの受けたショックの大きさは、私にまで伝わってきた。

青ざめた歩くんに、先生が続ける。



「俺が言ってるのはそういうことだ。そこを混同してほしくない。チャンスはチャンスだ、たとえどこから来た話だろうと」

「…でも、条件が」

「お前は今、提案と条件を、秤にかけてすらいない。怒りに任せて考えることを放棄してる。それじゃだめだ」



動揺に揺れる目を、まっすぐ覗き込んで、先生は言った。



「ちゃんと考えろ、それから出した答えなら、俺は聞く」


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