ビタージャムメモリ
「というわけだったんです、でもあの、出張の直前に監査が入ってオフィスが閉鎖されまして、とりあえず、事なきを得ました」
なのでお気になさらず、と締めようとしたんだけど、先生は愕然とした表情で、固まっていた。
あれっ。
「…それ、事情を話してくれてたら、違う方向から助けてあげられたかもしれないのに…」
「でも、私の被害妄想かもしれないですし」
会計の不正が見つからなかったらどうなってたかなあ、と懐かしく思い返してしまう。
実際の危機に至らなかったおかげか、バイト自体は、特に嫌な思い出でもない。
先生に対してしでかしたことのほうが、よっぽど心の健康に悪い。
「弓生は、案外バカだね」
「本当に失礼だったと思ってます、すみません…」
「そこじゃなくてさ」
ため息をつきながら、先生が抱きしめてくれた。
いつもする、いかにも大人ないい香りは、なんの香水かなあと思いながら、シャツ越しの引き締まった背中に手を回す。
「ちなみに、その後は?」
「あっ、ええと、三年生の時に、彼氏のような相手ができまして、無事、えーと…です」
「のような相手って」
「なんだか、曖昧だったんですよね、ちょっと…」
学内で、私を気に入ってくれた男の子がいて、なんとなく少しの間、つきあっているような雰囲気になった。
けど就活が始まって忙しくなったら、会わなくなってしまった。
思えば私、先生以外に好きになった人って、いないかもしれない。
先生がじっと私を抱いたまま、考え込んでいるような声を出す。
「…悔やんでも仕方ないから、悔やまないけど」
「先生が何を悔やむんですか?」
「うん、わからないなら、いいよ」
よしよしと頭をなでられているうちに、そうだ、と思い出した。
「先日実家に帰ったらですね、クリーニングから戻ってきた衣類の中に、先生のマフラーがあって」
「へえ」
「なんと父が使っていたんです。引っ越しの時、実家に送った荷物の中にあったのを、母が勝手に出したらしくて…すみません」
「あのね、弓生」
「先生の講義が急になくなってしまったので、お返しできなくて、途方に暮れたのを思い出しました。あの、状態はいいですが、お使いになりますか?」
「いや、あげるから、少し黙ろう」