奪うなら心を全部受け止めて
「いつ、どこで会っていたか...、それだけで相手は確定出来てしまう...」
「いえ、それは...忘れてしまいました」
忘れてなんかいない。忘れるはずがない。
こんな言い方をしても、目の前のこの人には嘘だとすぐにバレてしまう。
...だって、...。
「そうか...。忘れたのなら、探しようもないな」
あ、そんな...あっさり引くとは思わなかった...。
...改めて聞く必要はないのだろう。
...伝わったようだ。良かった。
「あの...」
生んでもかまわないだろうか。
「生まれてくる子供は二人の子だ。そうなる運命の子だ。だから、いいんだ。
本当の父親が誰だとか、そんな事は考える必要はないんだよ。漠然とした言い方になってしまうが、...君にとって、その相手...悪い男ではなかったのだろ?」
「...はい。それは、間違いのない、きちんとした人です」
「君がそう感じて、身を委ね、そうなったんだ。
間違いのない過ちだろう」
そうなったのは仕方がなかったんだと、その時の私の気持ちを思って、そう黙認してくれようとしているのだ。
...黙認するしかないだろう。
妊娠しないように薬をずっと飲み続けていた。家の中では周知の事実だった。
愛人とする行為も、徐々に虚しく思えてきて、逢瀬も遠退いていた。
こんな事をしても...何も充たされない。
だから薬も飲んでいなかった。
その頃の事だ。
その人は、訪れた高級バーで、一人グラスを傾けていた。
強めのお酒だろう。最後の一口を飲み、チェイサーを口にした。
立ち上がろうとする姿、ズッと目で追ってしまっていた。
瞳には憂いがある。渋さと沢山の経験。どっしりとした重厚感、そんなモノが漂っていた。
ここに愛なんてない。だけど...切なくて苦しい感情に囚われてしまった。
この人なら委ねられる。何もかも飲み込んでくれる、そう思った。気がついたときには我を忘れて踏み出していた。
だから忘れていたんだ。最近薬を飲んでいない事を。
今から私がしようとしている事。
今夜は知らない者同士として。
演じてみる事を決めた。
...後腐れのない女になる。
誰にも気づかれないよう近づいて、顔を寄せた。
男性にだけ届くように囁いた。
少しでも好意があるように取られてはこんな事は成立しない。勿論、ルールは、知らない者同士として。
「この後、私と過ごす時間をくれませんか?」
凄くドキドキした。これは...背徳。
その男性は私の顔を見てハッとした。
何故こんな事をするのか、困惑は当然あるだろう。
でも、大人の男だ。決断は早かった。
直ぐに意図を理解してくれたようだった。私の気持ちを汲み取ったのだと思う。
大人と大人がすること。二人の秘密にすればいい。
どこか、やる瀬なく微笑むと、優しくエスコートされた。
腰に手を回し、渋くて低い声でこう言った。
「一度きりだ」
と。