御曹司と愛され蜜月ライフ
たとえば──……たとえばだけどこのお美しい顔に渾身の右ストレートを食らわせて昏倒させたあげくダッシュで逃げたとしたら、どうなるかな。

今の時点で私自身が何かされてるわけじゃないから、正当防衛でもなく普通に傷害だよね。事件だよね。お巡りさん出動だよね。

しかも、相手は大企業の御曹司。財力と権力があるそんな人物に何かしようものなら報復もこわいよな……ていうかそもそも、私に人様を殴るなんて度胸すらなかったわ。はい詰んだ。


とにもかくにも気持ちだけは強く持とうと、キッときつい眼差しで睨むように見上げる。

彼はそんな私を見て、ほんの少しだけ首をかしげた。



「そう警戒するな。俺がきみを呼び止めたのは、ひとつだけ言いたいことがあったからだ」



呼び止めた? いきなり玄関に引きずり込んどいて??

やっぱりお金持ちってやつは一般人と感覚がズレてんのかしらと心の中で毒づきながら、私はあくまで不機嫌に「なんですか」とつぶやいた。



「俺が、このアパートに引っ越して来たことだが。他の人には──特に会社の人間には、絶対話さないように」

「……ど、」



どうしてですか、と訊ねるよりも先に、あごにあった指が私のくちびるへと触れる。

今の今まで気付かなかったけれど、近衛課長からはさわやかな香水のにおいがした。……私も、好きな香り。グリーンシトラスだ。

唐突すぎる接触に、不可抗力で心臓が大きくはねてしまったのもつかの間──彼はぐっと顔をこちらに近付けると、無表情のまま淡々と告げる。



「きみがこの約束を守るかぎり、俺も昨日のきみのだらけっぷりは胸の内にしまっておくことにしよう。だけどもし、俺がここに住んでいることを誰かに話そうものなら──」



……話そう、ものなら?

今度は口には出さず、視線だけで言葉の続きを促した。

思わず、こくりと唾を飲み込む。閉口した課長はそのまま数秒無言で私を見つめたかと思えば、おもむろに身体を離した。
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