御曹司と愛され蜜月ライフ
「あーあ……でも結局、あたしがいくら課長にアプローチしたところでムダなんだろうなぁ」



岩嵜さんがため息まじりにそう言うから、思わず顔を向けてしまった。

何事にも熱心な彼女にしてはめずらしい弱気発言だ。気になって言葉の続きを促してしまう。



「『ムダ』って、どうして?」

「え~だって、相手は御曹司ですよー? いくら運良く彼女になれたとしても、きっと最終的にはどこぞの大企業のご令嬢とか出てきて政略結婚っつーオチですよ」



……ワァ近衛課長、若手受付嬢に読まれてますよー。

再びこの場にいない人物に語りかける。まわりにお客様がいなくてほんとによかった。こんな今にも舌打ちしそうな荒んだ表情の受付嬢、さすがにアウトだろう。


岩嵜さんのセリフで久々に思い出した。そういえば近衛課長があの安アパートに引っ越して来た理由は、その政略結婚とやらから逃げるためだったんだっけ。

……『結婚』。その言葉を思い浮かべたときに胸の奥がチクリと痛んだ、けれど。私は気付かないフリで、ただ背筋を伸ばしパソコンに向かう。



「それでこの会社が安泰なら、きっといいことだよ」



思ってもいないセリフを口にして。自分の中に芽生えかけている感情に蓋をして。

なのに左手は、あの人がくれたピアスを無意識に撫でて。

ただ、ただ。このまま淡々と時が過ぎていくことを、時代に取り残されたあの湿っぽいアパートの片隅で、子どものようにひざを抱えながら私は願うのだ。



『昔……聞いたことがある。手の温度が冷たい人は、心があたたかいそうだ』


『……きみは、その通りだな』



近衛課長がそう言って微笑んだ、あの夜のことを不意に思い出しては頬を熱くさせてしまう自分がいることなんて。

こんなの誰にも、絶対に知られてはいけないんだ。
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