不器用ハートにドクターのメス
「あ……宝田駅の、近くなんです」
この数時間で、一生分の贅沢をしてしまったみたいだ。
そんなことを思いながら、真由美は、実家の最寄駅名を口にする。
「えっと……ノワールっていうケーキ屋さんが、そばにあって……」
「ノワール?まあ、宝田だったらわりとすぐだな」
「はい」
「了解。家近くなったらまた言え」
神崎の言葉に弾むようにうなずき、真由美はいそいそと、シートベルトを着用しにかかる。
これ以上なく緊張していても、こういった習慣的な行為は、さすがに忘れることはなかった。
真由美がしめ終わるのを確認してから、神崎はゆっくりとアクセルを踏み、車を発進させる。
「着くまで休んでろ」
発進と同時に、神崎は、真由美の肩をトンと軽く押し、座席へともたれさせた。
緊張による見本のような姿勢から、突然シートに背を預ける形になり、真由美は一瞬うろたえたものの、すぐに腹筋を緩める。
ピーク時よりも回復はしているが、やはりまだ、下腹部のだるさと痛みは残っている。
座席にもたれかかって力を抜くと、それがずいぶん楽だった。
「ありがとうございます」と消えかけの声で口にすると、神崎は少しだけくちびるを開いて、ふっと笑った。
車内には、甘さのない、独特でスパイシーな香りが立ち込めていた。
送風口に取り付けられている小さな四角い物体が、芳香剤なのだろうか。けれど芳香剤といってしまうより、上質な香水みたいだと、真由美は思う。
とても大人っぽくて、そして鼻の奥を適度に刺激する、心地よい香りだ。