不器用ハートにドクターのメス

「あ……宝田駅の、近くなんです」


この数時間で、一生分の贅沢をしてしまったみたいだ。

そんなことを思いながら、真由美は、実家の最寄駅名を口にする。


「えっと……ノワールっていうケーキ屋さんが、そばにあって……」

「ノワール?まあ、宝田だったらわりとすぐだな」

「はい」

「了解。家近くなったらまた言え」


神崎の言葉に弾むようにうなずき、真由美はいそいそと、シートベルトを着用しにかかる。

これ以上なく緊張していても、こういった習慣的な行為は、さすがに忘れることはなかった。

真由美がしめ終わるのを確認してから、神崎はゆっくりとアクセルを踏み、車を発進させる。


「着くまで休んでろ」


発進と同時に、神崎は、真由美の肩をトンと軽く押し、座席へともたれさせた。

緊張による見本のような姿勢から、突然シートに背を預ける形になり、真由美は一瞬うろたえたものの、すぐに腹筋を緩める。

ピーク時よりも回復はしているが、やはりまだ、下腹部のだるさと痛みは残っている。

座席にもたれかかって力を抜くと、それがずいぶん楽だった。

「ありがとうございます」と消えかけの声で口にすると、神崎は少しだけくちびるを開いて、ふっと笑った。

車内には、甘さのない、独特でスパイシーな香りが立ち込めていた。

送風口に取り付けられている小さな四角い物体が、芳香剤なのだろうか。けれど芳香剤といってしまうより、上質な香水みたいだと、真由美は思う。

とても大人っぽくて、そして鼻の奥を適度に刺激する、心地よい香りだ。

< 77 / 260 >

この作品をシェア

pagetop