平凡な毎日に恋という名の調味料(スパイス)を
すると大家さんの頭上から現れたのは、忙しない朝とは不釣り合いなほどほんわりとした笑顔。

三十才くらいかな? ちょっと襟首が伸びたTシャツにカーキー色のコットンパンツ。
足元は、裸足に突っかけサンダル。手櫛で整えただけのような襟足の短い黒髪に、後ろにはぴょこんと跳ねがある。

前髪で半分隠れた黒のセルフレームの奥にある少しタレ気味の目尻には笑い皺が数本刻まれ、ポツポツとまばらに無精髭が伸びた口元にも柔らかい笑みが浮かんでいる。

どう見てもだらしのない格好なのに、どうしてだろう? それがぜんぜん不快にならない。むしろ安心感とか親近感とかを抱いてしまう。

「おはようございます。この辺りは、アルミとスチールで缶を分けないといけないんですねぇ」

見た目通りののんびりした声が耳に心地好い。
つられて「どうも~」なんて和やかに挨拶を交わそうとして、ハッとした。
朝の一分一秒は貴重な時間。ただでさえ空き缶を取りに戻ったタイムロスがあるんだから!

「すみませんっ! 電車の時間があるんで」

さらに世間話を続けようとする二人を、適当な会釈でかわす。

「いってらっしゃ~い」

珍妙な二重奏を背中で受けて、なかば駆け出すように駅へと向かった。

早足のせいかどんどん速まっていく鼓動と、冷たい朝の空気に晒されてもなお熱を持っていく頬。
クールダウンさせるため足を緩めると、通勤通学の人の波に飲み込まれる。
そのとたんわたしは、その他大勢の一員にすぎなくなってしまった。

ふと人の流れに逆らって立ち止まり、開店前のショーウィンドウに映る自分の姿をあらためて見る。
店内に飾られていたライトブルーのスプリングコートを着たマネキンは、ついこの前まで暖かそうなニットのワンピースを着ていたはず。

――それに比べて。

私はいっつもいっしょ。同じなのは格好だけじゃない。生活も考え方も、一年前……ううん、もう何年も変わらずにいる。
安心安定のこの場所で根っこを生やしたように留まっていたら、そのうちにフワフワと甘い綿菓子みたいな夢をみることさえ忘れてしまいそう。
そうなったら、干物女一直線だ。

ぶるぶるぶる。思わず出てしまった身震いで我に返った。

マズい。いつもの電車までの時間に余裕はなかったんだ。
再び駅へと続く流れに身を投じ、いつもの道をいつも通りに進んでいった。

滑り込みでいつもの電車に間に合えば、一安心する。
ドア付近で満員の人に押しつぶされそうになりながら、必死で自分のスペースを確保して二駅の間我慢した。
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