平凡な毎日に恋という名の調味料(スパイス)を
傘も差さずに立つ彼に驚いて窓を開けようとしたけど、エンジンがかかっていないから無理で。すると、前をぐるっと回って助手席へと滑り込んできた。

湿気を含んで額にまとわりついた少し茶色がかった柔らかそうな髪を、鬱陶しそうに掻き上げる。その仕草が妙に艶っぽくって、思わず目を逸らしてしまった。

「やっとみつけました。いつもの場所にいないから、探したんですよ」

手にも付いてしまった水分を、子どもみたいにブルブルと振って乾かそうとするから、持っていたタオルハンカチを差し出した。

「車の中、濡らさないでよ。で、なにか用?」
「用事っていうか――。あいかわらず旨そうですね。ちょっと分けてくださいよ」

お弁当箱に伸ばしてきた手の甲を、ペチッと叩いて退治する。今日のは絶対、誰にも、一口だってあげるもんか。

「ダメ。ほら、さっさと用件を言いなさい」
「ケチ。んじゃあ、聞きますよ」

なに? と、お箸を置き身体を斜めにして助手席に向ける。軽自動車の前座席は狭くて、彼との距離がけっこう近いことに少しだけ焦った。

「礼子さん、お兄さんもお姉さんもいないんでしょう? 吉井さんに聞きました」

脩人くんはあの日以来、どういうわけか北村さんから礼子さんに呼び方が変わっていた。

「だったらなんであの定食屋で働いていたんですか? まさか、本当にバイトしてたとか言わないですよね?」

グイッと身を乗り出してきたので、その分だけ身をのけ反らす。近い、近いよ。

「実は彼氏? とか」

上目遣いでじっと問い詰められてたじろいだ。ギュッと目を瞑り、必死で首を左右に振り続ける。

「違う! そんなんじゃない」
「だよなぁ。あのときいた妊婦さんが奥さんなんですよね?」

今度はコクコクと上下に振った。激しく動かしすぎて首が痛い。

じゃあどうして、とあいかわらず至近距離から攻めてくる。
わたしは、まだ半分以上残っているお弁当に視線を逃がし、以前吉井さんについてしまった嘘を繰り返す。
< 35 / 80 >

この作品をシェア

pagetop