平凡な毎日に恋という名の調味料(スパイス)を
「いつでもおいで。皿洗いしてくれたら、タダにしてあげるから」
「……そんなことしてたら、みんなに食い逃げされちゃいますよ」
「うん。だから、礼ちゃんだけ特別」

彼が深く考えずに使ったと思われる『特別』という言葉は、わたしの中で都合良く別の意味に変換される。その響きが鼓動を速め、ますますエプロンに顔を埋めてしまう。

このままじゃダメだ。早く、以前のなんでもない日常に戻らないと。
そろそろと片手を伸ばして、晃さんのコックコートの裾を掴んで捕まえた。

「最後に。バイト代の代わりに、玉子焼きの作り方を教えてもらえませんか」
「玉子焼き? お弁当に入れていたのでいいの?」
「はい。あれが――大好きだから」

晃さんを好きになったことを無意味だったとしないよう、せめてあの味を覚えておきたい。
あの玉子焼きの作り方を身に付けるように、この想いを消化し吸収して、いつしかわたしの一部分にしてしまえればいい。

わたしの強引な論法に基づいて捻り出した案にも、そのわけを知らない晃さんは目元を緩めて快諾してくれた。

「いいよ。いまからでも平気?」

ちらりと時計に目を向ける。いまの時刻は22時過ぎ。明日からも仕事だけど構わない。

「晃さんさえよければ」

了解、と視線を下げたままのわたしの頭に手の乗せる。
あの夜のようにくしゃりと髪をかき混ぜられて、せっかくした決心が鈍りかけ、零れそうになった涙と言葉をぐっと呑み込んだ。

心の中で希さんに「ごめんなさい」をしながら、わたしは皺の寄ってしまったエプロンをもう一度着けた。
最後にほんの少しの間だけ、晃さんの『特別』にならせてください。

「じゃあ、まず出汁の取り方からね」
「……えっ?」

当然のように鍋を用意する晃さんの言葉に固まった。そこからですか?

「どんな料理でも基本は大事だよ。出汁が美味しくないと、なにを作っても味がぼやけてしまうからね。さあ、がんばろう!」

予想外の熱血指導に、時計の針はどんどん進んでいく。

クルクルと巻かれて折り重なる玉子の層。その間に晃さんへの苦く切ない想いも混ぜ込んで、少しでも減らそうと躍起になった。

そんな不純な理由で出来上がった玉子焼きでもほんわりと甘くって。
とっても優しい味がした。

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