平凡な毎日に恋という名の調味料(スパイス)を
「おや、こちらのお嬢さんは?」

部屋の片隅に移動していたわたしに目を向けたのは、ほとんど白髪になった髪を丁寧に整えたロマンスグレーのおじさま。穏やかな話し方と彼より深い笑い皺を刻む優しげな目元で、晃さんたちのお父さんだとすぐにわかった。

「俺の店を手伝ってくれていたコで――」
「北村礼子です」

若干緊張しながら頭を下げ、挨拶を交わす。さすがに家族が揃ったところにいるわけにはいかない。

「じゃあ、わたしはこれで――」

そろりと退室しようとすると、

「送っていくよ」

晃さんがごく自然に肩に手を回してきたものだから、思わず飛び退いた。

「だっ、大丈夫です。ここからなら歩いても帰れますし」
「察してよ。独身の男が、どれだけ産婦人科に居辛いか。ね?」

耳のすぐ傍で囁かれて、そちら側に身体中の熱が集まったみたいになっていく。

「じゃあ、産まれたら連絡して。たぶんあと1時間もすれば一樹も着くと思うから、それまで頑張って」
「そんなに~!?」

晃さんは私の背中を押して病室から出し、希さんの悲痛な叫びを病室の扉で遮った。
はぁ、と大きくため息を吐く晃さんを見上げる。

「赤ちゃん産まれるまでいなくてもいいんですか?」
「ダンナでもないのに、冗談を言わないでよ。男はお産の痛みに耐えられないって本当だろうね。俺だったら絶対に気を失う」

蒼い顔をして真剣に言う晃さんはなんだか可愛い。くすりと小さく笑うと、少しだけムッとしたように口を尖らせた。

「自分の子どものときは、もちろんちゃんと最後まで立ち会うよ。父親にはそれくらいしかできないからね」

なぜか真顔を寄せて宣言されれば、「そうですか。がんばってください」としかわたしには言い様がない。
それなのに、「うん、ありがとう。だから礼ちゃんもがんばってね」などと意味不明の微笑みを浮かべていた。



病院を出るとすっかり雨は止んでいて、湿った温い風がもうすぐ来る夏を感じさせた。

「あれ、今日って満月だったんですね」

久し振りに空に浮かぶ月は綺麗なまん丸で、金色の優しい光に輝いている。
満月の夜にお産が多いって本当なんだな。

「ホントだ、綺麗だね」

わたしより少し高い位置から見える満月は、ほんの少しだけ大きく見えるのかな?

きっとお月様にいま願うのは同じことだろう。

『無事に赤ちゃんが産まれますように……』

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