平凡な毎日に恋という名の調味料(スパイス)を
 ◇ ◇ ◇

タクシーでマンションに着くと、エレベーターで晃さんとは別れた。

丸一日留守にした部屋はじめっとしていて、妙な汗をかきまくった肌に気持ち悪くまとわりつく。

「お風呂に入ろう」

久し振りにたっぷりとお湯をため、お気に入りのバスボムを入れる。
狭いユニットバスがフルーツの甘酸っぱい香りに満たされれば、ずっと肩に入っていた力が抜け、ゆるゆると意識が遠のいていった。

ちゃぷん。水音に目を覚ます。

天井に届いた湯気が集まって、冷たい雫となって湯船に落ちていた。
ヤバい。すっかり落ちていた。

慌ててお風呂から上がったら、ずいぶん時間が経っていることに気づいた。と同時に小さなくしゃみが出る。風邪をひいてしまわないよう、急いで濡れた髪を乾かした。

さっぱりして人心地がついた途端に、今度はおなかが空いてくる。冷蔵庫の中に食材はあるけれど、いまから作るのは面倒だな。時計とにらめっこしていると、ピンポン、とドアホンが鳴った。

こんな時間に? 訝しみながらインターフォンに出ると、白黒のモニターに晃さんの姿が映る。

「どうしたんですか?」
『こんな時間にごめんね。さっき産まれたって連絡があったから、いちおう知らせておこうと思って』

スマホの画面をモニターに向けてくれる。たぶん赤ちゃんの写真なのだろうけれど、ぼやけてぜんぜんわからない。直に見てみたい! だけど……。

「ちょ、ちょっと待ってもらえますか。いま、お風呂から出たばっかりで」

超特急で身支度を整えようとした。するとまた、インターフォンからノイズ混じりの声が届く。

『ねぇ、夕飯はもう食べちゃった?』
「いえ、まだですけど」
『じゃあさ、支度できたら店においで。なにか作っておくから』

プチッと切れた。
一瞬止めた動きをさらに倍の速さでこなしていく。

さすがにばっちりメイクは引くだろう、とか。夜にこの服は気合い入れすぎ? とか。無駄に悩みながら、なんとか人前に出ても大丈夫というくらいに抑えたナチュラルな格好に落ち着いて、部屋を出るまで正味十五分。
エレベーターが1階から上がってくるのも待ちきれずに、わたしは階段を駆け下りた。
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