『それは、大人の事情。』【完】
何も知らない佑月が私のパソコンをボールペンでコツコツ叩き、怪しい笑顔で言う。
「ほら、あの子、また来る様になったんだ~」
「う、うん……そうだね」
今ここで謝るべきか迷っていた私は、振り返る事を躊躇していた。
「梢恵?難しい顔して……どうしたの?」
「えっ……別に、なんでもない」
オフィスのドアが閉まる音が聞こえ、白石蓮が出て行った事が分かった瞬間、なぜか寂しい気持ちになる。
きっと私は、彼の方から声を掛けてくれるのを待ってたんだ。以前と変わりなく明るい笑顔で話し掛けられるのを……
都合のいい事を考えていた自分に呆れ、再びパソコンのディスプレイに目をやった時、課長がご親切に定時になったと教えてくれた。
もうそんな時間か……
まだほとんどの社員が残っている中、複雑な思いでパソコンの電源を落とす。事情を知ってる佑月だけがこっそり右手を上げ見送ってくれた。
仕事でこんなに後ろめたい気持ちになったのは初めてだ。プライベートではいい加減な私だったけど、仕事だけは真面目にやってきたもの。
「二週間だけ……二週間だけだから……」
そう呟きエレベーターを降りると、目の前の受付カウンターに青いツナギを着た背の高い男性が居るのに気付き足が止まる。
掃除道具が積まれたワゴンに肩肘を付き、受付の娘と話している白石蓮は、とてもいい笑顔をしていた。彼だけじゃない。受付の娘もいつも仕事で見せる営業スマイルじゃなく凄く楽しそうに笑っている。