『それは、大人の事情。』【完】
ゆっくり帰ってくればいい。か……
いつも定時になると残っている他の社員に悪いと思いながら慌てて帰っていたから、時間を気にせず仕事が出来るというのは、正直有りがたかった。
それでなくても今日はミスが多くて仕事がはかどらず、今日中に終わらせなきゃいけない仕事がかなり残っていた。ここで帰ったら同じ班の若い娘達に何を言われるか分かったもんじゃない。
でも、私が何よりホッとしていたのは、真司さんのマンションにまだ帰らなくていいという事。
出来れば帰りたくない。帰ればきっと、私は真司さんから別れを告げられる。元妻の絵美さんの所に戻って、沙織ちゃんと三人で暮らすと……
覚悟してるつもりだったのに、いざその時が近付いてくると怖くて堪らない。だから予定の仕事が終わってもオフィスを出る事が出来なかった。
「朝比奈さん、まだ居るんですか?僕、もう帰りますけど……いいですか?」
午後九時、隣の班の新人君がやっと仕事を終えた。でも、私を残して帰っていいものか迷っているみたいだった。
「いいよ。私の事は気にしなくていいから帰って。お疲れ様」
「じゃあ、お先に失礼します」
新人君がオフィスを出て行くと、室内は静まり返り物音一つしない。
「とうとう一人になっちゃった……」
座りっぱなしで凝り固まった体をほぐし、なんとなく感じる空腹を満たそうとオフィスの隅にある自販機で缶コーヒーを買う。そして、私もそろそろ帰ろうか……そう思った時だった。
静寂が支配するオフィスにバタンという大きな音が響き渡る。