『それは、大人の事情。』【完】
その音に驚き、私の手から缶コーヒーが滑り落ち床を転がっていく。慌てて缶コーヒーを追いかけるが、横から伸びてきた手にそれを奪い取られた。
「はい、どーぞ」
私の目の前に差し出された缶コーヒー。ゆっくり視線を上げた先に居たのは―――
「白石……蓮」
「フルネームで呼んでくれてありがと!」
「えっ?どうしてここに?」
「んっ?見てのとーり、仕事だよ。今からここの床の拭き掃除するんだけど、梢恵さんこんな時間まで残業?」
あぁ……そっか、社員が帰った後にオフィスの掃除してるんだ。
「うん、ちょっと仕事が溜まっててね。でも、もう帰るから」
掃除の邪魔をしちゃいけないと思い、彼の手から缶コーヒーを受け取ろうと手を伸ばす。でも彼は突然手を引っ込め小悪魔みたいな怪しい笑みを浮かべる。
「ねぇ?梢恵さんが俺の事、名前で呼んでくれたのって、今が初めてだよね?もう一回、呼んでくれない?」
「はぁ?」
そういえば、私は彼を"君"って呼んでいた。名前で呼んだ記憶はない。
「フルネームじゃなくていいからさ。そう、蓮でいいよ」
「何言ってんの?」
「蓮って呼んでくれたら缶コーヒー返してあげる」
「ったく、バカバカしい。なら、その缶コーヒーは君にあげるよ」
くるりと向きを変え、自分のデスクに戻ろうとした私の手を白石蓮が掴み、低い声で呟いた。
「部長さんと、ちゃんと話したの?」
「あ……」
そうだった。白石蓮は私が真司さんに利用されてると思っていたんだ。