『それは、大人の事情。』【完】
―――八月三十日、午前七時。今日は、白石蓮との約束の日。
「―――じゃあ、行ってくる」
「あぁ、約束……忘れるんじゃないぞ」
「うん、分かってる」
真司さんは私の腰に手をまわすと、名残惜しそうに何度も啄む様なキスを繰り返し、なかなか離してくれない。
なんだか今朝の真司さんは、らしくない……
いつも自信満々な眼鏡の奥の瞳が、今日は、まるで何かに怯えているみたいに力なく揺れている。それに、出掛ける私をわざわざ玄関まで来て見送ってくれたのも初めてだ。
「……もう行かなきゃ……」
「あ、あぁ、気を付けてな」
ようやく彼の腕から解放され、キャリーバックを持って慌ただしく玄関を出る。
大通りで拾ったタクシーの中で腕時計に視線を落とし、新幹線の時間を気にしていたが、本当は、駅に行くべきかどうか迷っていた。
それは、私がモデルになる必要なんてないんじゃないかと思ったから。だって白石蓮は、私を諦める代わりにモデルになってくれって言ったんだもの。
彼にはもう理央ちゃんが居る。もう吹っ切れたこの子に、私をモデルにする理由なんてないのに……なぜ?
それに、あの男子トイレの一件以来、私と彼はお互いを避けていた。会社でバッタリ会っても会話を交わす事はなかったし、ラインもしなかった。
唯一、彼からきたラインは、今日の出発時間を知らせる事務的で素っ気ないメッセージだけ。
「はぁ~……なんだか憂鬱だな」
独り言を呟きタクシーを降りると、白石蓮と待ち合わせした新幹線ホームへと急ぐ。