絡む指 強引な誘い 背には壁 Ⅴ
8月10日
酒を飲む廣瀬だが、酔っても特に乱れたりはしないし、陽気になる程度だ。だから増田もずっとついているんだと、今になって思う。
ホテル暮らしの中、女子3人が廣瀬の部屋に集まり、話をすることはオープン前後を除いては何度もあった。その中で歌川が参加したのは1度だけだが、後は全て彼氏と電話をするから、という理由で断られている。のでもう誘うこともない。
最近は特にオープンが落ち着き、次第に次の店のことを考え始めた時期なので、ほぼ毎日集まっている女子達の中に、今日も歌川の姿は見えない。
ビール3本を基本とする廣瀬は、仕事の面白い愚痴を中心に今日も話に花を咲かせ、きゃあきゃあ言い合っている。
香月もその輪は最初から気に入っており、そのおかげで仕事もうまくいっているんだと感じていた。
まあ、歌川も歌川でここに参加しなくてもそれなりにうまくやっているので、それはそれでいいんだと思う。その派閥でもなく縛りがあるでもない環境に、香月は随分肩まで浸かってしかも心地よく感じていた。
8月19日金曜日。金土日と、3連休を全員で取り、翌月曜日からは新たな店の改装を行うがためにホテルを変更することになっていた。
全員自宅へ帰されたその金曜日の夕方。何の予定も入れてなかった香月は、久しぶりに四対に長電話をしようと、その連絡のためにメールを打とうとして、初めて歌川からの着信が30分前に一件、15分前に一件入っていたことに気が付いた。
普段見慣れない名前だけにぎょっとし、手帳を見返す。今日は出社ではない。間違いなく休みだ。
それを確認してから、発信ボタンを押す。
仕事の何か変更点だろうか、だとしたら一斉送信のメールでくるはずだが、メールはどこからもきていない。
なんだなんだと頭を巡らせながら、10回目のコールでようやく歌川は出る。
「もしもし?」
『お疲れ様です、すみません……』
その声は掠れていて、どうも寝起きのようだ。
「あ、ごめんなさい。着信があったから……」
『はい……ちょっと相談したいことがあって……』
まさか、相談事など持ちかけられるような仲だと思っていなかった香月は驚きと同時に、頼りにされていることを素直に喜ぶ。
「あ、うん……大丈夫? あ、今時間あるけど」
『香月さんの家は北店の近くですよね?』
「うん」
『私も北店の近くなんです。あの、よかったら……来ていただけたら助かるんですけど』
体調がよくないのかもしれない。風邪の看病とか?
そう思い、まさか良い風に扱われていないかと一瞬ムッとしたが、それを隠して、
「いいよ。場所どこ?」
まあ、4人で1つの女性チームだ。年下の相手が頼りにしてくれているんだから、行かないという手はない。
指示通りに来たアパートは、香月の家から30分ほどの単身用というよりはファミリー向けの建物だった。
とりあえず、体調が悪いということだったので、言われた通りのポカリやゼリーなど食べやすい物を買ってきている。
教えられた通りの部屋番号のインターフォンを押して待つと、すぐにドアが開き、髪の毛はぼぼさぼさで、化粧もせず口元を少し濡らしたいつもとは全く形相の女性が出てきた。
「だ……大丈夫?」
嘘ではなく、相当具合が悪そうなことに驚きながら、荷物を玄関の床に置く。
着ているピンクのパジャマの首元も随分濡れていた。
「……今顔洗ったんで……」
言いながら、玄関の隣の洗面所らしきところからタオルを取り出し、そのままリビングへと入って行く。
香月も靴を脱ぎ、形ばかりあいさつしながら中へ入る。
と、まあ……部屋が見事に荒れていた。しかし、それは今日昨日という具合ではない。
テレビの前にあるテーブルの上には食べ散らかした、飲み散らかした後があり、床もお菓子のカスが落ちている。
ソファには洋服やらインナーやらも無造作に置かれており、部屋の隅にはいつもの仕事用のトランクが開いたままになっている。
その上には下着が散らかっていた。
部屋を眺めている間に、歌川は寝室に入ったのか出て来ない。
ドアが開いていたのでそのまま、覗き、入っていい? と聞くと、なんとなく声のようなものが返ってきたので、香月はそのまま入り込んだ。
新見はパジャマのまま、横になり、布団にくるまっている。顔色が少し悪い。
「病院行く?」
「……………落ち着いたら……」
相当寝苦しそうだが、吐きそうかもしれないので、とりあえず退散することにする。
「部屋、片付けるね」
それには頷いて答えたので、とにかく、買ってきた物を冷蔵庫に入れようとキッチンに入った。
「………」
建物自体は新しいようだが、いつから置いていたのかしれない数々のグラスやお皿が流しにそのままあり、茫然と見入ってしまう。
確かに、ホテル暮らしが続き家に帰って来られないが、来られないなら来られないで、出て行く時に気を付けておかないとこうなるわけだ。
まあ、今回急に体調を崩して、いつもはこうじゃないのに、と思っているのかもしれないし。
香月は気を取り直して、冷蔵庫を開け、サラダなどを詰め込み、ジュースだけ寝室に持って行ってから、洗濯物を回して、キッチン、リビングの掃除を静かに始めた。
そのまま、1時間くらい経過したと思う。
さすがに掃除するのも疲れてきたし、あまり細かいところまでできないし、と思って寝室を覗くと本人は寝息を立てて寝ていた。少し落ち着いたようだ。
この時期だから、夏バテか疲れか、風邪くらいだろうが、とりあえず病院には行っておいた方がいいと思い直し、夜間でもみてもらえるところを携帯で探しておく。
更になんとなくリビングで1時間過ごし、19時半を超えたところで、ようやく歌川が起き出してきた。
「大丈夫?」
それには答えず、トイレに入ってしまう。
まだ本調子ではなさそうだ。
トイレから出てきて、ようやく、
「はー……、ちょっと楽かも」
と、笑顔を見せた。頬に赤みが差している。
「病院行く? 7時からあいてるとこ、近くにあるよ?」
「あぁ……」
歌川は視線を伏せ、そのままリビングのソファ、香月の隣に腰かけてきた。
だがすぐに立ち上がり、薄いブランケットを寝室から持ち出すと、それにくるまって腰かけ直した。
「病院は、昨日、行ったんです」
「あ、そうなの……昨日、休みだった?」
「はい、急遽……」
「そうだったんだ」
階が違うと全く会わないし、昼休憩もなんとなく13時から14時となっているだけで全員が毎回揃うわけでもなく、朝礼などもないので、一日くらい休んでも全く気付かなかった。
「風邪?」
としか思い浮かばなかったのでそう聞いたが、
「………」
歌川は黙り込んだ。
まさか、重病では、という予感が先走ったため、香月も黙るしかない。
「その、あの、別に言わなくてもいいから。……あ、流しとかは片付けたからね……」
まだ黙り込んでいる。いつもの明るい雰囲気からは見たこともない、想像できないような、暗い歌川に励ましの言葉以外思いつかない。
「あの……体調悪かったら、言ってね。家も近いし、手伝いに来られるから。って言っても、料理はあんまり得意じゃないからダメなんだけど」
まあ、ちょっと冗談も入れつつ……。
「…………」
困ったな……と溜息をつくのを我慢して、宙を見上げる。
20時になろうとしている。明日、明後日の予定はないが、今日は四対と電話する予定を自分の中で立てていただけに、早く帰りたいという気が起こってくる。
「香月さんは、勝己部長の奥さんと仲がいいですよね?」
唐突に何の話だと思ったが、
「え? あぁまあ……めちゃくちゃ仲がいいってほどではないかな、なのかな。うんでも、仲はいいと思う」
山瀬と香織ほどではないが、香月もそれなりに香織と仲が良いつもりだが。
何故それを今歌川が質問してくるのか、全くもって理解できない。
「どんな風なんですか?」
「え? 奥さん?」
病気の話から話を逸らそうとしているのかもしれない、と悟り、
「え、うーん。そうだねえ。私、山瀬サブマネ補佐から紹介されて、一緒に食事に行ったのが最初ななんだけどね。あの、私の中ではマネ婦人って言ったら、高飛車な感じなのかと思ってたけど全然そうでもなく、すごく気遣ってくれて。あ、私より1つ下なんだけどね」
「香月さんより1つ下なんですか……」
歌川は妙に反応して、顔を上げた。
「え、うん。まあ……」
「奥さんから勝己部長の話、聞いたことあります?」
「え? さあ……うーん、あるかもしれないけど、そんな詳しくはないかな。やっぱ、ケジメというか、そういうのがあるんじゃないかな。上司と部下でも夫婦、というかなんか、分かんないけど」
歌川の真意が分からず、話が進まない。
彼女と雑談をしたことはあるが、こういうわけの分からない類の話はしたことがなかったので、相当病気のことが重いんだろうか、それとも、単に気になっただけだろうかと、疑いながら横目で見る。
なんだか、やっぱり落ち込んでいるようなので、適当に、
「社内恋愛でいえば、坂東主任と草薙サブマネの……」
と、言おうとしたが、
「勝己部長の奥さんって離婚すると思いますか?」
その一言で全てがつながり、ピンときてしまった香月は、ただ固まった。
茫然とし、言葉が出なくなる。
目の前の歌川のあり様が信じられなくなる。
お願いだから、核心の一言だけは言わないでほしい、私には聞かせないでほしい。
そう信じたのにも関わらず、歌川はとめどなく口に出した。
「私、今勝己部長の子供を妊娠しているんです」
「ずっと帰って来ていない」
と言った香織の言葉。
「勝己部長の……」
と言いかけて、坂東が一時停止した不審さ。
「彼氏と電話してくるんで」
と、いつも飲み会に参加せず、電話をかけてくる彼氏。
「今日はやめておく」
と、歓迎会を断った勝己に
「じゃあ、私も」
と、同じように避けた歌川。
そんなまさか。
と思う前に、頭の中が全て正解をはじき出していた。
「…………」
言葉が出ない。
歌川は、しっかり言い切り、前を向いていた。
彼女はまだ23歳だ。急に、ブランケットからはみ出た素足のピンク色のマニキュアが艶めかしく見え、それに勝己がすがっている姿が頭の中に立体的に浮かんだ。
勝己は随分笑っていた。笑顔だった。
チームになってから、溶けたように笑うようになつていたと思う。だけどそれは、店から解解放されてのことで、そんなまさか、歌川が近くにいるからそうなっていたなんて……。
「まだ、良成(よしなり)には言ってないんです」
良成が勝己だということを認識するまでしばらく時間がかかる。
だが、それは大事なことで、いづれはかならず勝己にも言わなければいけない内容だと思うし、香織も知るはめになるのかもしれないが、何故……それを私に言ったのか、何故巻き込まれたののかが、全く分からず、怒りと不信感がこみあげて来る。
「あの……ちょっと。その……私はそんなこと全然知らなくて……」
「そうだったんですか?」
歌川の驚きが大きかったことに、こちらが驚く。
「そ、そりゃあそうよ!! そんな私が……」
「良成は知ってるっぽく言ってましたけど」
「……」
絶句以外にない。
良成って……一体あなたの何なのよ……。
思考がただ停止する。
勝己のことよりも、香織のことが頭から離れない。
「あの、それで、お願いがあるんです」
香月は歌川を冷ややかな目で見た。
そのお願いは到底叶えてやれそうにないと、先読みする。
しかし、それでも構わず歌川は続けた。
「良成にこのことを言ってもらえませんか?」
「なんで私が」
お願いを予想しきれてはいなかったが、到底受け入れられる願いではない。
香月の顔は引きつり、声は低くなった。
「私1人で行くのは、怖いんです」
「そんなの私が行ったって同じでしょう!? 答えは同じだと思うよ」
ただしかし、同じ答えだとしても、それが、歌川的に安堵するものか、そうではないものか、どちらに転ぶのか、今の香月には到底判断しかねた。
「でも……私だって……妊娠すると思わなかったし……」
小さな肩が震え、涙がブランケットに零れ落ちた。
勝己がどんな風に歌川を丸め込んだのか知らないが、避妊をきちんとしなかったのだろう。
……それなら、ただの遊びなのか。
なんなのか。
今はとりあえず、勝己の口から「まさか妊娠するとは思わなかった」というセリフだけは聞きたくない。
まだ新卒の小娘を捕まえて……ということは、もしかして北店のマネ時代からそうだったということなのか、同じ店に妻がいながらそういう仲だったということなのか!?
信じがたい状況に全く気付かず仕事をしていた自分も信じられなくなり、思考が無になっていく。
泣きじゃくりながらも歌川は、なんとか声を出し始めた。一緒について来てほしいという願いを更に続けられても、そんなこと……、それだけは……。
「よ……良成は……妊娠すればいいって言ってたけど」
香月はただ、凍てついた。
口に手を当てた。だが、頭の中を巡るのは、勝己が最近、忙しいながらもそつなく仕事をしていた姿だけ。
多忙の中、確かに顔つきは良かった。坂東が「堪えている」と言っていたが顔色には出ていなかったと思う。
それがまさか、その理由がまさか……。
妊娠すればいいだなんて、どういう……。
「……」
歌川に何を言うべきなのか、何を聞くべきなのか、そして自分が何をするべきなのか、全く分からなくなる。
「……病院には行ったんです。5週だって言われました」
更に、頭を鈍器で殴られた気分だった。
「そ……でもそれは、自分で言って、勝己部長にちゃんと説明して……」
「で、でももし、俺の子じゃないとか言われたらって思うと……」
「なんでよ!? 妊娠すればいいって言ったんでしょぅ!?」
訳が分からない。こんな話をしている自分が信じられなかった。
「だから……分かるじゃないですか、そういうノリというか」
一体どんなノリだ。
「いやその…そのノリのことは知らないけど、でも絶対自分で言うべきだよ」
「いや、いいます。自分では言います。だけど、ついて来てほしいんです」
何でよ……。
「あの、いや、私は今それを知ったばかりで、今までは何も知らなかったんだよ?」
「それは……私は知ってると思ったから言ったというところで、読み違えてはいたんですけど」
知っていたとしても、そんなお願いを聞き入れてくれる人なんか、ただの同僚の中にいるだろうか。
「…………そもそも、なんで私が知ってると思ったのよ」
「良成の奥さんが疑ってて、でもそれを跳ねのけるようなことを香月さんが言ったって、良成が……」
良成って誰……、もう度を越して、笑いたくなってくる。
「知らないけど。全く私はそんなこと、知らないよ? そんな……みんなそうだよ。みんな思うわけないじゃん!」
「けど多分、チームの人はみんな知ってましたよ」
「え?」
その、澄ました歌川の顔つきに腹が立つ。
「私、いつも女子会行かないじゃないですか。あれ、良成の部屋に行ってたんですよ」
「………」
自分が恐ろしい顔をしていることは自覚したが、それをやめることはできなかった。
「気づきませんでした?」
「そ、そんなだって……」
何をすらすらとそんなことを……。
「彼氏と電話するっていうの、嘘だったんです。まあ、半分本当でしたけど」
嘘の何が半分本当だと、あまりにもしれっと言い切るので、さすがに腹が立つ。
「知らないよ。そんなの。そんなの私は知らない。 私は……」
香織を置いて、歌川の味方になるようなこと、そんなことはできないし、したつもりなどない!!
「お願いです! 話をする時だけでいいから、そばにいて下さい!!」
ピンポーン。
インターフォンが鳴る。同時に掛け時計を見ると20時20分を指している。
こんな時に来客ではないだろう、宅急便だろうか。
無意識に一息ついたが、
「良成が来ました」
「えっっ!!」
言いながら、歌川は既に立ち上がって玄関のチェーンを開けている。
「ちょっと!!!」
さすがに叫んだが、もう既にドアは開き、
「…………、…………」
驚いた顔を一瞬で制する勝己良成、本人の姿がそこにあった。
「……遊びに来てたのかな?」
勝己は靴は脱がず、そのまま玄関で立ち尽くしている。
さすがに何かを察知したようで、既に帰り支度をしているようだ。
「え、ええ……まあ……」
そのまま帰ろうかとも思う。だが、見捨てて帰るような真似もできず、どうにか帰る了承だけは歌川から取っておかねば。
「あの、私はもう帰るから」
強引に立ち上がって、バックを引っ掴んだが、
「お願いだから、行かないでください!」
という、歌川の響く声にさすがに身体が固まった。
「……なんか、取り込んでるようだから、僕は帰るよ」
その、まるで関係がないという、のっぺらぼうのような顔の勝己はドアノブに手をかけた。が、その瞬間歌川は、
「妊娠したの」
今ここで言うか、というタイミングだった。
顔を逸らさずにはいられない。
「あぁ…………」
勝己の視線を感じたような気がした。だが勝己は勝己で慌てふためき、本当か、とか、まあ、とりあえず香月を帰して、とか、そういう流れになると、予想した。
再びバックを握りしめた時、なんだか着ずれのような音がしたことに気づいて、少しだけ顔をそちらに向けた。
「…………」
2人は抱き合っていた。
驚きのあまり、バックを落としてしまう。
だが、その音に誰も反応せず、長い抱擁の時間は続いた。
呼吸が荒くなった香月は、すぐさま帰ることを決意し、バックを拾い上げ、すぐそばで抱き合っている2人などまるで目に入らぬように、靴を履く。
「香月」
勝己の声が聞こえたが、耳を貸すつもりはない。
そのままドアの外に出た。
ほっとしたのもつかの間、すぐに再びドアが開く。
勝己は、無言で部屋から出ると、後ろ手でドアを閉めた。
「…………帰りますから」
それ以外、言いようがない。
「香織は納得してる?」
「知りませんよ! そんなこと!!」
大声で言い返した。
玄関のドアが再び開き、歌川がちらと顔をのぞかせた。
「少し話をしてくるから、あかりは寝てなさい」
歌川もすぐに引っ込んでしまう。
この2人、絶対どうかしている。
「話なんて、私はないです」
「私があるから言っているんだ」
急に上司ぶってくる。多分きっと、こういう時のために、階級制度が崩れないんだとはっきり理解した瞬間だった。
しかし、勝己は先に歩き始める。
帰るにはエレベーターを降りるしかない。香月は、仕方なく勝己の後について、エレベーターに乗り込んだ。
エレベーターを降り、ロビーを出て更に外へ出る。
この蒸し暑い中、外へ出たくはなかったが仕方ない。
香月は、勝己について出た。
「本当に香月は何も知らなかったのか?」
「知りません」
「……」
「今聞きました。というか、なんで歌川さんが私に言ってきたのか全く分かりませんけど」
「まあ、僕たちを祝福してくれていると思ったんだろう」
「……」
んなわけないじゃないですか、という一言はさすがに飲み込んだ。というか、勝己がいつもにかけて随分上司ぶってくる。
「香織からは何か聞いた?」
「知りませんよ……」
知っているはずがないし、そんなこと、知りたくもない。
顔を見る気にもならないし、さらりと言ってのける声に腹が立つ。
「じゃあ香月から言っておいてくれ」
「え……」
そして勝己はもう戻ろうとする。まるで、我が家に帰るかのように。
「ちょっ、なん……」
「私は連休なしで家に帰る暇もない、電話で話しても埒が明かない」
よくそんな平気な顔で……
「ち、そんな、他人の私が入れるようなことではありません!!」
「他人の君だからワンクッションになれるんだよ」
「い、いい加減にしてください!!」
さすがに腕をつかんだ。
「ちょっと待って下さい!! 何で私なんですか!!」
色々言いたかったが、もう今はとりあえずそれしか言葉が出てこなかった。
勝己はさっと手を外し、いかにも当然だと言うように、
「あかりが君を選んだからだ」
「……」
何の説明にもなっていない。
のにも関わらず、そのまま勝己はやはり帰ってしまう。
「………」
身体の力が抜け落ちた。蒸し暑い中、ただマンションの前でアスファルトに両手をついた。手のひらがすぐに痛くなる。
「……」
頭では整理がつかず、自分の状況も把握できない。
香月はただ、その場に項垂れ、しばらくじっとしていた。
家にこの課題を持って帰りたくない。そんな気がしたので、帰宅途中の24時間カフェに入り、アイスコーヒー片手にただテーブルの先を見つめた。
そして、携帯の電話帳もスクロールさせる。
「………」
香織にそのまま言うべきなんだろうか……。
言ってどうなるんだろうか。
本当に言うべきなんだろうか。
言う前に勝己をもっと説得させるべきなんだろうか。
だとしたら、歌川にも言うべきなんだろうか。
その場合、お腹の子供をどうするのか。
せっかく産めるのに……。
その先の思考は停止させる。今はそれは考えたくない。
とにかく、ぐるぐるぐるぐる考える。
考えても考えても答えにはたどり着けそうにないし、とにかく誰かに相談したかった。
山瀬……でも、どうだろう。近すぎる分、良いのか悪いのか分からない。
宮下……全く関係がない。
廣瀬……、はおそろく知っていたのだろう。今考えると、彼氏と電話をしているという歌川のことも分かっていたからこそ、放っておいたような気がする。
増田は賢いので、多分アドバイスをしそうにはない。
鳴丘も随分世話にはなったが関係なさすぎるし、
「………」
ふと、九条の名が浮かんだ。
何かに困った時は、相談してくれればいいと言っていたではないか!
今、確かに自分は困っている。絶対に困っていると確信し、九条なら何かいいアドバイスをもらえてしかも、絶対に口が堅いと信じて電話をすることにした。
家に帰る時間が惜しくて、そのまま車の中でかけることにする。
金曜日のこの日、九条は出社しているはずだと信じて、発信ボタンを押した。
午後22時過ぎ。
早く退社して、寝ている可能性もあることもあったが、構わずコールを鳴らし続ける。
『はい』
背後に売り場の雑音が聞こえる。
まだ仕事をしていたことに若干ほっとしつつ、フロアではとうていできる話ではないことにどどうすべきか、迷う。
『もしもし?』
「あ、もしもし、香月です。お疲れ様です」
『どうした?』
すぐに切り出す。
「あの、ご相談したいことがありまして……」
『今はフロアだ。会議室へ向かう』
そんなところでできる話ではないが、一々会って話すほどのことでもないかもしれないと思い、そのまま待つ。
「すみません。お忙しいのに」
『それはいいから』
会議室のドアを開け閉めした音がする。
「すみません、今ちなみにどちらのお店ですか?」
『北店だ』
香織が所属している店である。
「すみません、勝己さんのお話なので、人が来たら会話を中断してください」
『……、あぁ。大体話は分かる』
「えっ!?」
まさか、既に九条の耳にも入っていたなんて、
「ち、ちょっと……私は今の今まで何も知らなくて。それで……」
『あぁ、そういうの、鈍いんだね』
九条は笑ってすらいる。
鈍いとか、そういう問題では、全くない。一体全体、どうかしている。
「ちょっ、そんな、笑ってる場合ですか!!」
『まあ、業務には関係ないしね。それで?』
それでって……。
「それで……。それで……、歌川さんが妊娠したから、そのことを香織さんに伝えて欲しいって勝己部長に言われて……」
『ふーん、何で君が間に入るの?』
「知りません、私も今日歌川さんが体調悪いって急に呼び出されて……」
『じゃあ、言わなくていいんじゃないの?』
「え、でも……部長には言えって……」
『他人の君が深入りしない方がいい。君が言わなくても、いづれ彼が自分で言うよ』
「……でも私、香織さんと仲良くて……」
『でも会わないだろ? 会う予定でもあるの?』
「ないですけど……」
『じゃぁそのままでいい。すぐにばれる話だよ』
さらりと話が終わってしまって、拍子抜けする。
「……九条専務なら言わないですか?」
『私なら言わないね、他人だもの』
「そうですけど……」
『……香月は何を大事にしたいのか、それが大事。
……そろそろ切るよ。フロアに戻らないと』
「あ、すみません……すみません……、ありがとうございました……」
九条のさらりとした言い方がまるで無関心で少しムッとくる。
だが、考え直す。私と香織の関係と、九条と勝己の関係は違う。
それがはっきりしたところで、山瀬に電話をかけることに決めた。だが、発信しようとして、思う。今この時間に発信しても、仕事だったらあえて取らない可能性が高い。
だけど、今はそんな場合ではないと思う。
香織は今も子供と2人で家にいるだろうし、何しろ、歌川のお腹がどんどん大きくなる。
とりあえず、バックの中に財布と携帯だけ確認して、外へ出た。車に乗り込み、北店へ迎う。直接行っていなければ、電話すればいいし、いれば直接都合をつければいい。
到着すると、九条のアルファロメオの真っ赤な車体がすぐに目に入った。だが、気をつけていれば、広いフロアで会う可能性は低い。
午後22時の閉店時間を過ぎていたので、玄関は閉まっているが、倉庫事務所のインターフォンを気ままに押す。
「あぁ、お疲れ様です!!」
嬉しそうに出迎えてくれた、久しぶりの顔に、差し入れでも持ってくればよかったとすぐに後悔したが、
「お疲れ様。ごめんねこんなところから入って」
「いえいえ、どうしたんですか?」
「……えーと、山瀬補佐は今日出社?」
「いますよ。今日は臨時の会議があったから」
「ありがとう」
いると分かれば探せばいいが何せ、広い。
「ごめん、悪いんだけど、内線かけて居場所聞いてもらえない?」
「いいですよ」
すぐに居場所が3階事務室だと分かり、直行する。
事務室前に行くと、既に出てきてくれていた山瀬が
「どしたのー??」
と嬉しそうに手を振ってくれていた。
「ごめん、急ぎなの。ちょっと時間欲しいんだけど、1時間くらい。今日時間とれない?」
「え、何? どうしたの??」
目を見開き見つめてくる。
香月は、周囲を見渡し、誰もいないことを確認してから、
「香織のことなの。急ぐことだと思うの」
小声で言いすぎたせいか、
「え?」
と山瀬には聞こえず、
「まだ、上がらないの?」
と、言い直す。
「それが今日はちょっと……今、帰れるかどうかの境くらい。大きなトラブルがあって」
こんな時に限ってこれだ。
「じゃあ、10分だけ。15分くらいでいいから、時間取れない。その、会議室かどっかでいいから」
九条は既に会議室にはいないはずだ。
「そんな急ぎ?」
山瀬の顔に不信感が沸いてくる。
「そうだと思うの。ごめんね、そうじゃなかったら」
「……ちょっと待ってて」
山瀬は一応事務所の中に声をかけてから、すぐに出て来る。
「ごめん」
「会議室は誰もいないから。そこで」
山瀬も歩調を合わせて足早についてきてくれる。
会議室は普段鍵などかかっておらず、自由に使える。すぐたどり着くと、入るなり香月はドアを閉めた。
そして、念のため、部屋の奥の方に行って、ようやく話を切り出す。
「何? 本当に何なの?」
山瀬は心配と不安ともったいぶられている怒りのようなものが混じっている。
香月はすぐに切り出した。
「勝己部長が浮気してて……その子が妊娠したの」
「………え!?!? か……」
と、言ったっきり床を見つめてしまった。
「その子がSSチームの歌川って子で……」
「…………」
山瀬は、2、3度頷きながら、頭を掻いた。
「知ってた!?」
半信半疑で聞いた。
「噂はあったよ。ここにいた時から」
「嘘!!」
香月は、山瀬を射抜くほどに見つめた。
「だから、疑ってたじゃん。この前ランチ行った時も、香織が。でも愛ちゃんが絶対仕事だっていうからちょっと納得した感じだったけど」
「いやいや、私は全然知らなくて! そんな素振りがあったのかどうかも知らないし、あの時は香織が、部長は本社に寄ってるっていうから……私もそこで初めて部長が本社に寄ってること知って」
山瀬の顔が納得していなかったので、更に続ける。
「帰って確かめたら、やっぱり本社に寄ってるっていうから……」
「……離婚とか言い出してるの?」
「それどころか、私に頼んできたのよ、部長が。香織に言って欲しいって」
「……」
山瀬は腕を組んで首を振った。
「ワンクッションにはなっても、香織のショックは変わらないよ。……でも、だいぶ疑ってはいたけどね」
「ここにいた時の噂をもとに?」
「それと一致してるって思ってたんでしょ。
そもそも、新人でSSチーム入るなんてありえないもの」
「……でもそれは」
「なんとか表面上うまくやってるのは、全部勝己部長がうまくフォローしてるからだと思うよ。でも絶対穴だらけだよ。ここでもろくに仕事なんかできてなかったから」
「………」
何も知らなかった自分を大きく後悔する。
「異動の時点で確信には変わってたんだろうね、香織からすれば」
「……………」
ランチの時、半分気遣い、仕事だと言い切ったことを後悔する。
「……どうするんだろ。色々」
山瀬は真剣に宙を見つめた。
「……どうするとか、そういうことは言ってなかった。ただ、私から香織に伝えて欲しいって……でも、私が言ったところで」
ガチャリと、ドアが開いて、2人は瞬時にドアの方へ顔を向けた。
思わず目を逸らす。九条専務だ。
「………、電気がついていることに気づいたから」
言いながら中へ入ってくる、香月は、足早に九条に近づいた。
「すみません、もう帰ります」
「さっきの相談?」
冷ややかな九条の視線を感じて、香月は、言葉を探した。
「他人のことは他人に任せればいい。君が入り込む必要はない」
山瀬の視線も感じた。何故九条に相談したのか、話を広げる必要があったのかと思っているに違いない。
「すみません……でも、私は香織さんに伝えるべきだと思ったので」
「いや、迷っているからここへ相談に来たんだろう?」
「……そうですけど……けど、……」
「夫婦の問題は夫婦に任せておけばいい。勝己君だって、そのうち自分で言うさ」
「だからって……歌川さんのお腹がどんどん大きくなるじゃないですか!」
「それ、本当に妊娠してるの?」
香月は、一時停止してから、ゆっくりと九条を見上げた。
「だから、関わらない方がいい。君が入って行くことで、余計こじれる。なら、私が勝己君に言おう。君を巻き込まないように、と」
「…………」
その判断が間違っているのかどうか、香月には全く分からない。
「山瀬、仕事へ戻れ」
「、はい」
リバティで育った山瀬は、どんな時も、きちんと返事だけして、上司の言われるがままにきちんと動くことができる。
その後ろ姿は、もう、何にも関わりませんと言っているかのような無表情だった。
パタリとドアが閉まると同時に、九条は溜息を吐いた。
「香月……」
心なしか声が優しくなった気がして、こちらも少し気を抜いて顔を見上げた。
「やっかい事には関わらないで欲しい。附和専務のお叱りを頂くことになる」
そして、溜息を吐いて、メガネの端を指で持ち上げながらこめかみを抑えている。
「私だって今回は関わりたくて関わったんじゃありません。
歌川さんに言われて家へ行ったら、勝己部長が来て……」
「勝己には私から釘を指しておく。
不倫どうこうということではない。香月を巻き込むなということだ」
「不倫は構わないんですか?」
香月はしっかり九条の目を見て聞いた。
そして、九条もしっかり香月の目を見て答える。
「勝己の不倫に、一体何が関係するのかね?」
それは、度を越えた上から目線だったように思う。
それに圧倒されて、返す言葉が見つからない。
酒を飲む廣瀬だが、酔っても特に乱れたりはしないし、陽気になる程度だ。だから増田もずっとついているんだと、今になって思う。
ホテル暮らしの中、女子3人が廣瀬の部屋に集まり、話をすることはオープン前後を除いては何度もあった。その中で歌川が参加したのは1度だけだが、後は全て彼氏と電話をするから、という理由で断られている。のでもう誘うこともない。
最近は特にオープンが落ち着き、次第に次の店のことを考え始めた時期なので、ほぼ毎日集まっている女子達の中に、今日も歌川の姿は見えない。
ビール3本を基本とする廣瀬は、仕事の面白い愚痴を中心に今日も話に花を咲かせ、きゃあきゃあ言い合っている。
香月もその輪は最初から気に入っており、そのおかげで仕事もうまくいっているんだと感じていた。
まあ、歌川も歌川でここに参加しなくてもそれなりにうまくやっているので、それはそれでいいんだと思う。その派閥でもなく縛りがあるでもない環境に、香月は随分肩まで浸かってしかも心地よく感じていた。
8月19日金曜日。金土日と、3連休を全員で取り、翌月曜日からは新たな店の改装を行うがためにホテルを変更することになっていた。
全員自宅へ帰されたその金曜日の夕方。何の予定も入れてなかった香月は、久しぶりに四対に長電話をしようと、その連絡のためにメールを打とうとして、初めて歌川からの着信が30分前に一件、15分前に一件入っていたことに気が付いた。
普段見慣れない名前だけにぎょっとし、手帳を見返す。今日は出社ではない。間違いなく休みだ。
それを確認してから、発信ボタンを押す。
仕事の何か変更点だろうか、だとしたら一斉送信のメールでくるはずだが、メールはどこからもきていない。
なんだなんだと頭を巡らせながら、10回目のコールでようやく歌川は出る。
「もしもし?」
『お疲れ様です、すみません……』
その声は掠れていて、どうも寝起きのようだ。
「あ、ごめんなさい。着信があったから……」
『はい……ちょっと相談したいことがあって……』
まさか、相談事など持ちかけられるような仲だと思っていなかった香月は驚きと同時に、頼りにされていることを素直に喜ぶ。
「あ、うん……大丈夫? あ、今時間あるけど」
『香月さんの家は北店の近くですよね?』
「うん」
『私も北店の近くなんです。あの、よかったら……来ていただけたら助かるんですけど』
体調がよくないのかもしれない。風邪の看病とか?
そう思い、まさか良い風に扱われていないかと一瞬ムッとしたが、それを隠して、
「いいよ。場所どこ?」
まあ、4人で1つの女性チームだ。年下の相手が頼りにしてくれているんだから、行かないという手はない。
指示通りに来たアパートは、香月の家から30分ほどの単身用というよりはファミリー向けの建物だった。
とりあえず、体調が悪いということだったので、言われた通りのポカリやゼリーなど食べやすい物を買ってきている。
教えられた通りの部屋番号のインターフォンを押して待つと、すぐにドアが開き、髪の毛はぼぼさぼさで、化粧もせず口元を少し濡らしたいつもとは全く形相の女性が出てきた。
「だ……大丈夫?」
嘘ではなく、相当具合が悪そうなことに驚きながら、荷物を玄関の床に置く。
着ているピンクのパジャマの首元も随分濡れていた。
「……今顔洗ったんで……」
言いながら、玄関の隣の洗面所らしきところからタオルを取り出し、そのままリビングへと入って行く。
香月も靴を脱ぎ、形ばかりあいさつしながら中へ入る。
と、まあ……部屋が見事に荒れていた。しかし、それは今日昨日という具合ではない。
テレビの前にあるテーブルの上には食べ散らかした、飲み散らかした後があり、床もお菓子のカスが落ちている。
ソファには洋服やらインナーやらも無造作に置かれており、部屋の隅にはいつもの仕事用のトランクが開いたままになっている。
その上には下着が散らかっていた。
部屋を眺めている間に、歌川は寝室に入ったのか出て来ない。
ドアが開いていたのでそのまま、覗き、入っていい? と聞くと、なんとなく声のようなものが返ってきたので、香月はそのまま入り込んだ。
新見はパジャマのまま、横になり、布団にくるまっている。顔色が少し悪い。
「病院行く?」
「……………落ち着いたら……」
相当寝苦しそうだが、吐きそうかもしれないので、とりあえず退散することにする。
「部屋、片付けるね」
それには頷いて答えたので、とにかく、買ってきた物を冷蔵庫に入れようとキッチンに入った。
「………」
建物自体は新しいようだが、いつから置いていたのかしれない数々のグラスやお皿が流しにそのままあり、茫然と見入ってしまう。
確かに、ホテル暮らしが続き家に帰って来られないが、来られないなら来られないで、出て行く時に気を付けておかないとこうなるわけだ。
まあ、今回急に体調を崩して、いつもはこうじゃないのに、と思っているのかもしれないし。
香月は気を取り直して、冷蔵庫を開け、サラダなどを詰め込み、ジュースだけ寝室に持って行ってから、洗濯物を回して、キッチン、リビングの掃除を静かに始めた。
そのまま、1時間くらい経過したと思う。
さすがに掃除するのも疲れてきたし、あまり細かいところまでできないし、と思って寝室を覗くと本人は寝息を立てて寝ていた。少し落ち着いたようだ。
この時期だから、夏バテか疲れか、風邪くらいだろうが、とりあえず病院には行っておいた方がいいと思い直し、夜間でもみてもらえるところを携帯で探しておく。
更になんとなくリビングで1時間過ごし、19時半を超えたところで、ようやく歌川が起き出してきた。
「大丈夫?」
それには答えず、トイレに入ってしまう。
まだ本調子ではなさそうだ。
トイレから出てきて、ようやく、
「はー……、ちょっと楽かも」
と、笑顔を見せた。頬に赤みが差している。
「病院行く? 7時からあいてるとこ、近くにあるよ?」
「あぁ……」
歌川は視線を伏せ、そのままリビングのソファ、香月の隣に腰かけてきた。
だがすぐに立ち上がり、薄いブランケットを寝室から持ち出すと、それにくるまって腰かけ直した。
「病院は、昨日、行ったんです」
「あ、そうなの……昨日、休みだった?」
「はい、急遽……」
「そうだったんだ」
階が違うと全く会わないし、昼休憩もなんとなく13時から14時となっているだけで全員が毎回揃うわけでもなく、朝礼などもないので、一日くらい休んでも全く気付かなかった。
「風邪?」
としか思い浮かばなかったのでそう聞いたが、
「………」
歌川は黙り込んだ。
まさか、重病では、という予感が先走ったため、香月も黙るしかない。
「その、あの、別に言わなくてもいいから。……あ、流しとかは片付けたからね……」
まだ黙り込んでいる。いつもの明るい雰囲気からは見たこともない、想像できないような、暗い歌川に励ましの言葉以外思いつかない。
「あの……体調悪かったら、言ってね。家も近いし、手伝いに来られるから。って言っても、料理はあんまり得意じゃないからダメなんだけど」
まあ、ちょっと冗談も入れつつ……。
「…………」
困ったな……と溜息をつくのを我慢して、宙を見上げる。
20時になろうとしている。明日、明後日の予定はないが、今日は四対と電話する予定を自分の中で立てていただけに、早く帰りたいという気が起こってくる。
「香月さんは、勝己部長の奥さんと仲がいいですよね?」
唐突に何の話だと思ったが、
「え? あぁまあ……めちゃくちゃ仲がいいってほどではないかな、なのかな。うんでも、仲はいいと思う」
山瀬と香織ほどではないが、香月もそれなりに香織と仲が良いつもりだが。
何故それを今歌川が質問してくるのか、全くもって理解できない。
「どんな風なんですか?」
「え? 奥さん?」
病気の話から話を逸らそうとしているのかもしれない、と悟り、
「え、うーん。そうだねえ。私、山瀬サブマネ補佐から紹介されて、一緒に食事に行ったのが最初ななんだけどね。あの、私の中ではマネ婦人って言ったら、高飛車な感じなのかと思ってたけど全然そうでもなく、すごく気遣ってくれて。あ、私より1つ下なんだけどね」
「香月さんより1つ下なんですか……」
歌川は妙に反応して、顔を上げた。
「え、うん。まあ……」
「奥さんから勝己部長の話、聞いたことあります?」
「え? さあ……うーん、あるかもしれないけど、そんな詳しくはないかな。やっぱ、ケジメというか、そういうのがあるんじゃないかな。上司と部下でも夫婦、というかなんか、分かんないけど」
歌川の真意が分からず、話が進まない。
彼女と雑談をしたことはあるが、こういうわけの分からない類の話はしたことがなかったので、相当病気のことが重いんだろうか、それとも、単に気になっただけだろうかと、疑いながら横目で見る。
なんだか、やっぱり落ち込んでいるようなので、適当に、
「社内恋愛でいえば、坂東主任と草薙サブマネの……」
と、言おうとしたが、
「勝己部長の奥さんって離婚すると思いますか?」
その一言で全てがつながり、ピンときてしまった香月は、ただ固まった。
茫然とし、言葉が出なくなる。
目の前の歌川のあり様が信じられなくなる。
お願いだから、核心の一言だけは言わないでほしい、私には聞かせないでほしい。
そう信じたのにも関わらず、歌川はとめどなく口に出した。
「私、今勝己部長の子供を妊娠しているんです」
「ずっと帰って来ていない」
と言った香織の言葉。
「勝己部長の……」
と言いかけて、坂東が一時停止した不審さ。
「彼氏と電話してくるんで」
と、いつも飲み会に参加せず、電話をかけてくる彼氏。
「今日はやめておく」
と、歓迎会を断った勝己に
「じゃあ、私も」
と、同じように避けた歌川。
そんなまさか。
と思う前に、頭の中が全て正解をはじき出していた。
「…………」
言葉が出ない。
歌川は、しっかり言い切り、前を向いていた。
彼女はまだ23歳だ。急に、ブランケットからはみ出た素足のピンク色のマニキュアが艶めかしく見え、それに勝己がすがっている姿が頭の中に立体的に浮かんだ。
勝己は随分笑っていた。笑顔だった。
チームになってから、溶けたように笑うようになつていたと思う。だけどそれは、店から解解放されてのことで、そんなまさか、歌川が近くにいるからそうなっていたなんて……。
「まだ、良成(よしなり)には言ってないんです」
良成が勝己だということを認識するまでしばらく時間がかかる。
だが、それは大事なことで、いづれはかならず勝己にも言わなければいけない内容だと思うし、香織も知るはめになるのかもしれないが、何故……それを私に言ったのか、何故巻き込まれたののかが、全く分からず、怒りと不信感がこみあげて来る。
「あの……ちょっと。その……私はそんなこと全然知らなくて……」
「そうだったんですか?」
歌川の驚きが大きかったことに、こちらが驚く。
「そ、そりゃあそうよ!! そんな私が……」
「良成は知ってるっぽく言ってましたけど」
「……」
絶句以外にない。
良成って……一体あなたの何なのよ……。
思考がただ停止する。
勝己のことよりも、香織のことが頭から離れない。
「あの、それで、お願いがあるんです」
香月は歌川を冷ややかな目で見た。
そのお願いは到底叶えてやれそうにないと、先読みする。
しかし、それでも構わず歌川は続けた。
「良成にこのことを言ってもらえませんか?」
「なんで私が」
お願いを予想しきれてはいなかったが、到底受け入れられる願いではない。
香月の顔は引きつり、声は低くなった。
「私1人で行くのは、怖いんです」
「そんなの私が行ったって同じでしょう!? 答えは同じだと思うよ」
ただしかし、同じ答えだとしても、それが、歌川的に安堵するものか、そうではないものか、どちらに転ぶのか、今の香月には到底判断しかねた。
「でも……私だって……妊娠すると思わなかったし……」
小さな肩が震え、涙がブランケットに零れ落ちた。
勝己がどんな風に歌川を丸め込んだのか知らないが、避妊をきちんとしなかったのだろう。
……それなら、ただの遊びなのか。
なんなのか。
今はとりあえず、勝己の口から「まさか妊娠するとは思わなかった」というセリフだけは聞きたくない。
まだ新卒の小娘を捕まえて……ということは、もしかして北店のマネ時代からそうだったということなのか、同じ店に妻がいながらそういう仲だったということなのか!?
信じがたい状況に全く気付かず仕事をしていた自分も信じられなくなり、思考が無になっていく。
泣きじゃくりながらも歌川は、なんとか声を出し始めた。一緒について来てほしいという願いを更に続けられても、そんなこと……、それだけは……。
「よ……良成は……妊娠すればいいって言ってたけど」
香月はただ、凍てついた。
口に手を当てた。だが、頭の中を巡るのは、勝己が最近、忙しいながらもそつなく仕事をしていた姿だけ。
多忙の中、確かに顔つきは良かった。坂東が「堪えている」と言っていたが顔色には出ていなかったと思う。
それがまさか、その理由がまさか……。
妊娠すればいいだなんて、どういう……。
「……」
歌川に何を言うべきなのか、何を聞くべきなのか、そして自分が何をするべきなのか、全く分からなくなる。
「……病院には行ったんです。5週だって言われました」
更に、頭を鈍器で殴られた気分だった。
「そ……でもそれは、自分で言って、勝己部長にちゃんと説明して……」
「で、でももし、俺の子じゃないとか言われたらって思うと……」
「なんでよ!? 妊娠すればいいって言ったんでしょぅ!?」
訳が分からない。こんな話をしている自分が信じられなかった。
「だから……分かるじゃないですか、そういうノリというか」
一体どんなノリだ。
「いやその…そのノリのことは知らないけど、でも絶対自分で言うべきだよ」
「いや、いいます。自分では言います。だけど、ついて来てほしいんです」
何でよ……。
「あの、いや、私は今それを知ったばかりで、今までは何も知らなかったんだよ?」
「それは……私は知ってると思ったから言ったというところで、読み違えてはいたんですけど」
知っていたとしても、そんなお願いを聞き入れてくれる人なんか、ただの同僚の中にいるだろうか。
「…………そもそも、なんで私が知ってると思ったのよ」
「良成の奥さんが疑ってて、でもそれを跳ねのけるようなことを香月さんが言ったって、良成が……」
良成って誰……、もう度を越して、笑いたくなってくる。
「知らないけど。全く私はそんなこと、知らないよ? そんな……みんなそうだよ。みんな思うわけないじゃん!」
「けど多分、チームの人はみんな知ってましたよ」
「え?」
その、澄ました歌川の顔つきに腹が立つ。
「私、いつも女子会行かないじゃないですか。あれ、良成の部屋に行ってたんですよ」
「………」
自分が恐ろしい顔をしていることは自覚したが、それをやめることはできなかった。
「気づきませんでした?」
「そ、そんなだって……」
何をすらすらとそんなことを……。
「彼氏と電話するっていうの、嘘だったんです。まあ、半分本当でしたけど」
嘘の何が半分本当だと、あまりにもしれっと言い切るので、さすがに腹が立つ。
「知らないよ。そんなの。そんなの私は知らない。 私は……」
香織を置いて、歌川の味方になるようなこと、そんなことはできないし、したつもりなどない!!
「お願いです! 話をする時だけでいいから、そばにいて下さい!!」
ピンポーン。
インターフォンが鳴る。同時に掛け時計を見ると20時20分を指している。
こんな時に来客ではないだろう、宅急便だろうか。
無意識に一息ついたが、
「良成が来ました」
「えっっ!!」
言いながら、歌川は既に立ち上がって玄関のチェーンを開けている。
「ちょっと!!!」
さすがに叫んだが、もう既にドアは開き、
「…………、…………」
驚いた顔を一瞬で制する勝己良成、本人の姿がそこにあった。
「……遊びに来てたのかな?」
勝己は靴は脱がず、そのまま玄関で立ち尽くしている。
さすがに何かを察知したようで、既に帰り支度をしているようだ。
「え、ええ……まあ……」
そのまま帰ろうかとも思う。だが、見捨てて帰るような真似もできず、どうにか帰る了承だけは歌川から取っておかねば。
「あの、私はもう帰るから」
強引に立ち上がって、バックを引っ掴んだが、
「お願いだから、行かないでください!」
という、歌川の響く声にさすがに身体が固まった。
「……なんか、取り込んでるようだから、僕は帰るよ」
その、まるで関係がないという、のっぺらぼうのような顔の勝己はドアノブに手をかけた。が、その瞬間歌川は、
「妊娠したの」
今ここで言うか、というタイミングだった。
顔を逸らさずにはいられない。
「あぁ…………」
勝己の視線を感じたような気がした。だが勝己は勝己で慌てふためき、本当か、とか、まあ、とりあえず香月を帰して、とか、そういう流れになると、予想した。
再びバックを握りしめた時、なんだか着ずれのような音がしたことに気づいて、少しだけ顔をそちらに向けた。
「…………」
2人は抱き合っていた。
驚きのあまり、バックを落としてしまう。
だが、その音に誰も反応せず、長い抱擁の時間は続いた。
呼吸が荒くなった香月は、すぐさま帰ることを決意し、バックを拾い上げ、すぐそばで抱き合っている2人などまるで目に入らぬように、靴を履く。
「香月」
勝己の声が聞こえたが、耳を貸すつもりはない。
そのままドアの外に出た。
ほっとしたのもつかの間、すぐに再びドアが開く。
勝己は、無言で部屋から出ると、後ろ手でドアを閉めた。
「…………帰りますから」
それ以外、言いようがない。
「香織は納得してる?」
「知りませんよ! そんなこと!!」
大声で言い返した。
玄関のドアが再び開き、歌川がちらと顔をのぞかせた。
「少し話をしてくるから、あかりは寝てなさい」
歌川もすぐに引っ込んでしまう。
この2人、絶対どうかしている。
「話なんて、私はないです」
「私があるから言っているんだ」
急に上司ぶってくる。多分きっと、こういう時のために、階級制度が崩れないんだとはっきり理解した瞬間だった。
しかし、勝己は先に歩き始める。
帰るにはエレベーターを降りるしかない。香月は、仕方なく勝己の後について、エレベーターに乗り込んだ。
エレベーターを降り、ロビーを出て更に外へ出る。
この蒸し暑い中、外へ出たくはなかったが仕方ない。
香月は、勝己について出た。
「本当に香月は何も知らなかったのか?」
「知りません」
「……」
「今聞きました。というか、なんで歌川さんが私に言ってきたのか全く分かりませんけど」
「まあ、僕たちを祝福してくれていると思ったんだろう」
「……」
んなわけないじゃないですか、という一言はさすがに飲み込んだ。というか、勝己がいつもにかけて随分上司ぶってくる。
「香織からは何か聞いた?」
「知りませんよ……」
知っているはずがないし、そんなこと、知りたくもない。
顔を見る気にもならないし、さらりと言ってのける声に腹が立つ。
「じゃあ香月から言っておいてくれ」
「え……」
そして勝己はもう戻ろうとする。まるで、我が家に帰るかのように。
「ちょっ、なん……」
「私は連休なしで家に帰る暇もない、電話で話しても埒が明かない」
よくそんな平気な顔で……
「ち、そんな、他人の私が入れるようなことではありません!!」
「他人の君だからワンクッションになれるんだよ」
「い、いい加減にしてください!!」
さすがに腕をつかんだ。
「ちょっと待って下さい!! 何で私なんですか!!」
色々言いたかったが、もう今はとりあえずそれしか言葉が出てこなかった。
勝己はさっと手を外し、いかにも当然だと言うように、
「あかりが君を選んだからだ」
「……」
何の説明にもなっていない。
のにも関わらず、そのまま勝己はやはり帰ってしまう。
「………」
身体の力が抜け落ちた。蒸し暑い中、ただマンションの前でアスファルトに両手をついた。手のひらがすぐに痛くなる。
「……」
頭では整理がつかず、自分の状況も把握できない。
香月はただ、その場に項垂れ、しばらくじっとしていた。
家にこの課題を持って帰りたくない。そんな気がしたので、帰宅途中の24時間カフェに入り、アイスコーヒー片手にただテーブルの先を見つめた。
そして、携帯の電話帳もスクロールさせる。
「………」
香織にそのまま言うべきなんだろうか……。
言ってどうなるんだろうか。
本当に言うべきなんだろうか。
言う前に勝己をもっと説得させるべきなんだろうか。
だとしたら、歌川にも言うべきなんだろうか。
その場合、お腹の子供をどうするのか。
せっかく産めるのに……。
その先の思考は停止させる。今はそれは考えたくない。
とにかく、ぐるぐるぐるぐる考える。
考えても考えても答えにはたどり着けそうにないし、とにかく誰かに相談したかった。
山瀬……でも、どうだろう。近すぎる分、良いのか悪いのか分からない。
宮下……全く関係がない。
廣瀬……、はおそろく知っていたのだろう。今考えると、彼氏と電話をしているという歌川のことも分かっていたからこそ、放っておいたような気がする。
増田は賢いので、多分アドバイスをしそうにはない。
鳴丘も随分世話にはなったが関係なさすぎるし、
「………」
ふと、九条の名が浮かんだ。
何かに困った時は、相談してくれればいいと言っていたではないか!
今、確かに自分は困っている。絶対に困っていると確信し、九条なら何かいいアドバイスをもらえてしかも、絶対に口が堅いと信じて電話をすることにした。
家に帰る時間が惜しくて、そのまま車の中でかけることにする。
金曜日のこの日、九条は出社しているはずだと信じて、発信ボタンを押した。
午後22時過ぎ。
早く退社して、寝ている可能性もあることもあったが、構わずコールを鳴らし続ける。
『はい』
背後に売り場の雑音が聞こえる。
まだ仕事をしていたことに若干ほっとしつつ、フロアではとうていできる話ではないことにどどうすべきか、迷う。
『もしもし?』
「あ、もしもし、香月です。お疲れ様です」
『どうした?』
すぐに切り出す。
「あの、ご相談したいことがありまして……」
『今はフロアだ。会議室へ向かう』
そんなところでできる話ではないが、一々会って話すほどのことでもないかもしれないと思い、そのまま待つ。
「すみません。お忙しいのに」
『それはいいから』
会議室のドアを開け閉めした音がする。
「すみません、今ちなみにどちらのお店ですか?」
『北店だ』
香織が所属している店である。
「すみません、勝己さんのお話なので、人が来たら会話を中断してください」
『……、あぁ。大体話は分かる』
「えっ!?」
まさか、既に九条の耳にも入っていたなんて、
「ち、ちょっと……私は今の今まで何も知らなくて。それで……」
『あぁ、そういうの、鈍いんだね』
九条は笑ってすらいる。
鈍いとか、そういう問題では、全くない。一体全体、どうかしている。
「ちょっ、そんな、笑ってる場合ですか!!」
『まあ、業務には関係ないしね。それで?』
それでって……。
「それで……。それで……、歌川さんが妊娠したから、そのことを香織さんに伝えて欲しいって勝己部長に言われて……」
『ふーん、何で君が間に入るの?』
「知りません、私も今日歌川さんが体調悪いって急に呼び出されて……」
『じゃあ、言わなくていいんじゃないの?』
「え、でも……部長には言えって……」
『他人の君が深入りしない方がいい。君が言わなくても、いづれ彼が自分で言うよ』
「……でも私、香織さんと仲良くて……」
『でも会わないだろ? 会う予定でもあるの?』
「ないですけど……」
『じゃぁそのままでいい。すぐにばれる話だよ』
さらりと話が終わってしまって、拍子抜けする。
「……九条専務なら言わないですか?」
『私なら言わないね、他人だもの』
「そうですけど……」
『……香月は何を大事にしたいのか、それが大事。
……そろそろ切るよ。フロアに戻らないと』
「あ、すみません……すみません……、ありがとうございました……」
九条のさらりとした言い方がまるで無関心で少しムッとくる。
だが、考え直す。私と香織の関係と、九条と勝己の関係は違う。
それがはっきりしたところで、山瀬に電話をかけることに決めた。だが、発信しようとして、思う。今この時間に発信しても、仕事だったらあえて取らない可能性が高い。
だけど、今はそんな場合ではないと思う。
香織は今も子供と2人で家にいるだろうし、何しろ、歌川のお腹がどんどん大きくなる。
とりあえず、バックの中に財布と携帯だけ確認して、外へ出た。車に乗り込み、北店へ迎う。直接行っていなければ、電話すればいいし、いれば直接都合をつければいい。
到着すると、九条のアルファロメオの真っ赤な車体がすぐに目に入った。だが、気をつけていれば、広いフロアで会う可能性は低い。
午後22時の閉店時間を過ぎていたので、玄関は閉まっているが、倉庫事務所のインターフォンを気ままに押す。
「あぁ、お疲れ様です!!」
嬉しそうに出迎えてくれた、久しぶりの顔に、差し入れでも持ってくればよかったとすぐに後悔したが、
「お疲れ様。ごめんねこんなところから入って」
「いえいえ、どうしたんですか?」
「……えーと、山瀬補佐は今日出社?」
「いますよ。今日は臨時の会議があったから」
「ありがとう」
いると分かれば探せばいいが何せ、広い。
「ごめん、悪いんだけど、内線かけて居場所聞いてもらえない?」
「いいですよ」
すぐに居場所が3階事務室だと分かり、直行する。
事務室前に行くと、既に出てきてくれていた山瀬が
「どしたのー??」
と嬉しそうに手を振ってくれていた。
「ごめん、急ぎなの。ちょっと時間欲しいんだけど、1時間くらい。今日時間とれない?」
「え、何? どうしたの??」
目を見開き見つめてくる。
香月は、周囲を見渡し、誰もいないことを確認してから、
「香織のことなの。急ぐことだと思うの」
小声で言いすぎたせいか、
「え?」
と山瀬には聞こえず、
「まだ、上がらないの?」
と、言い直す。
「それが今日はちょっと……今、帰れるかどうかの境くらい。大きなトラブルがあって」
こんな時に限ってこれだ。
「じゃあ、10分だけ。15分くらいでいいから、時間取れない。その、会議室かどっかでいいから」
九条は既に会議室にはいないはずだ。
「そんな急ぎ?」
山瀬の顔に不信感が沸いてくる。
「そうだと思うの。ごめんね、そうじゃなかったら」
「……ちょっと待ってて」
山瀬は一応事務所の中に声をかけてから、すぐに出て来る。
「ごめん」
「会議室は誰もいないから。そこで」
山瀬も歩調を合わせて足早についてきてくれる。
会議室は普段鍵などかかっておらず、自由に使える。すぐたどり着くと、入るなり香月はドアを閉めた。
そして、念のため、部屋の奥の方に行って、ようやく話を切り出す。
「何? 本当に何なの?」
山瀬は心配と不安ともったいぶられている怒りのようなものが混じっている。
香月はすぐに切り出した。
「勝己部長が浮気してて……その子が妊娠したの」
「………え!?!? か……」
と、言ったっきり床を見つめてしまった。
「その子がSSチームの歌川って子で……」
「…………」
山瀬は、2、3度頷きながら、頭を掻いた。
「知ってた!?」
半信半疑で聞いた。
「噂はあったよ。ここにいた時から」
「嘘!!」
香月は、山瀬を射抜くほどに見つめた。
「だから、疑ってたじゃん。この前ランチ行った時も、香織が。でも愛ちゃんが絶対仕事だっていうからちょっと納得した感じだったけど」
「いやいや、私は全然知らなくて! そんな素振りがあったのかどうかも知らないし、あの時は香織が、部長は本社に寄ってるっていうから……私もそこで初めて部長が本社に寄ってること知って」
山瀬の顔が納得していなかったので、更に続ける。
「帰って確かめたら、やっぱり本社に寄ってるっていうから……」
「……離婚とか言い出してるの?」
「それどころか、私に頼んできたのよ、部長が。香織に言って欲しいって」
「……」
山瀬は腕を組んで首を振った。
「ワンクッションにはなっても、香織のショックは変わらないよ。……でも、だいぶ疑ってはいたけどね」
「ここにいた時の噂をもとに?」
「それと一致してるって思ってたんでしょ。
そもそも、新人でSSチーム入るなんてありえないもの」
「……でもそれは」
「なんとか表面上うまくやってるのは、全部勝己部長がうまくフォローしてるからだと思うよ。でも絶対穴だらけだよ。ここでもろくに仕事なんかできてなかったから」
「………」
何も知らなかった自分を大きく後悔する。
「異動の時点で確信には変わってたんだろうね、香織からすれば」
「……………」
ランチの時、半分気遣い、仕事だと言い切ったことを後悔する。
「……どうするんだろ。色々」
山瀬は真剣に宙を見つめた。
「……どうするとか、そういうことは言ってなかった。ただ、私から香織に伝えて欲しいって……でも、私が言ったところで」
ガチャリと、ドアが開いて、2人は瞬時にドアの方へ顔を向けた。
思わず目を逸らす。九条専務だ。
「………、電気がついていることに気づいたから」
言いながら中へ入ってくる、香月は、足早に九条に近づいた。
「すみません、もう帰ります」
「さっきの相談?」
冷ややかな九条の視線を感じて、香月は、言葉を探した。
「他人のことは他人に任せればいい。君が入り込む必要はない」
山瀬の視線も感じた。何故九条に相談したのか、話を広げる必要があったのかと思っているに違いない。
「すみません……でも、私は香織さんに伝えるべきだと思ったので」
「いや、迷っているからここへ相談に来たんだろう?」
「……そうですけど……けど、……」
「夫婦の問題は夫婦に任せておけばいい。勝己君だって、そのうち自分で言うさ」
「だからって……歌川さんのお腹がどんどん大きくなるじゃないですか!」
「それ、本当に妊娠してるの?」
香月は、一時停止してから、ゆっくりと九条を見上げた。
「だから、関わらない方がいい。君が入って行くことで、余計こじれる。なら、私が勝己君に言おう。君を巻き込まないように、と」
「…………」
その判断が間違っているのかどうか、香月には全く分からない。
「山瀬、仕事へ戻れ」
「、はい」
リバティで育った山瀬は、どんな時も、きちんと返事だけして、上司の言われるがままにきちんと動くことができる。
その後ろ姿は、もう、何にも関わりませんと言っているかのような無表情だった。
パタリとドアが閉まると同時に、九条は溜息を吐いた。
「香月……」
心なしか声が優しくなった気がして、こちらも少し気を抜いて顔を見上げた。
「やっかい事には関わらないで欲しい。附和専務のお叱りを頂くことになる」
そして、溜息を吐いて、メガネの端を指で持ち上げながらこめかみを抑えている。
「私だって今回は関わりたくて関わったんじゃありません。
歌川さんに言われて家へ行ったら、勝己部長が来て……」
「勝己には私から釘を指しておく。
不倫どうこうということではない。香月を巻き込むなということだ」
「不倫は構わないんですか?」
香月はしっかり九条の目を見て聞いた。
そして、九条もしっかり香月の目を見て答える。
「勝己の不倫に、一体何が関係するのかね?」
それは、度を越えた上から目線だったように思う。
それに圧倒されて、返す言葉が見つからない。