さよならは言わない

尊を無視しメニューを見ていた。そもそも、一派遣社員が恐れ多くも派遣先の会社の専務と一緒にランチをすることはないのだからと無視を決め込んだ。


「森田さん、専務とお二人でゆっくりお食事なさって下さい。私は食欲がないので失礼します」


終始蔑むような目で見られるのは耐えられない。まして、一度は愛した人だ。それに、誤解とはいえ未だに私をそんな目で見ている人と同じテーブルで食事など無理だ。

気分が優れないのは事実だが、それ以上に無駄な出費は控えたい。私は贅沢するために仕事をしているのではないから。


会社へ戻る途中にあるコンビニエンスストアに立ち寄り、おにぎりを一つ買った。

そして、会社へ急ぎ戻ると営業課にある給湯室へ向かった。給湯室は派遣社員でも自由に使うことが出来る。私は緑茶を湯呑みに注ぐと自分のデスクへと行き、そこで一人静かに昼食を取ることにした。


おにぎり一個の昼食などものの5分も有れば十分だ。

おにぎりを食べ終わると手帳を取りだし娘の美香の写真を眺めていた。


心を強く持とうと決めたけれど、動揺なんてしないと決めたけれど、心は頭ではどうにもならない事ばかり。

心を強く持てなかった。意識せずにはいられなかった。

どうしても尊の一挙手一投足が気になってしまう。私の中から尊を消すことが出来ない。


なのに、あんな冷たい目をした尊と一緒にはいられない。

まだ昼休み時間だと言うのに既に疲れきってしまった私は机に頭を伏せて軽く仮眠を取ろうかと思った。

すると、廊下を歩く足音に気付き音のする方を見ると、会いたくもない尊がそこにいた。

尊を無視しようと再び机に突っ伏した。


尊の足音はだんだんと近づいて私のデスクそばまで来ると足を止めた。

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