さよならは言わない
尊の足跡はまだ聞こえない。私から離れていく足跡が聞こえてもいいのに。
とうして、まだ、ここにいるの?
私を罵倒したらないの?
それとも、即刻契約破棄したくてなやんでいるの?
だったら、尊は専務だから好きなようにすればいいんだわ。
なのに、尊の手が私の頭に触れた。
昔、ベッドで抱き締められている時によくしていた行為だ。
触れられた手に体が熱く反応してしまった。それが、私にはどんなに怖いことなのか尊は知らない。
思わず顔を上げて尊の手を払い除けた。
自分の顔が赤く染まっているのは分かる。体が尊の熱を思いだし受け入れようとしているのだ。
「絵里……」
懐かしい優しい声で囁かれるように呼ばれると勘違いしそうになる。
憎まれて蔑まれているだけなのに。
なのに、昔の尊を見ているようだった。
「絵里」
尊の手が再び頭に触れるとそのまま懐かしいキスをされた。
昔、私にしてくれた甘く蕩けるようなキスだ。
私が好きだった唇の動きが昔を思い出す。
でも、もうこれは私のものじゃない。あの、尊の新しい彼女のものだ。
あの女の顔を思い出すと尊の胸を押した。けれど、押し退けるどころか尊の力強い腕にさらに引き寄せられ抱き締められた。
その力強さに体の力も意識もどこかへと飛んでしまった。
「絵里?!」
倒れてしまった私を抱き抱えた尊は、私の顔色の悪さにそのまま医務室まで運んでくれた。
廊下ですれ違う社員達の好奇な目にさらされながら。