天に見えるは、月
「うん……え? もしかしてお願いするのはだめだった?」
「いや……大丈夫、です」
一瞬でも、弓削に行ってもらおうかと考えてしまったことを猛省した。
経理に行きたくない一心でそんなずるいことを考えてしまったなんて、公私混同もいいところだ。
弓削から書類を受け取り、香凛は重たい足取りで経理課へと向かった。
エレベーターが開いて、そこから少し歩いたところでふと立ち止まる。
たった数か月前まで、確かに自分はこの階で働いていた。
異動してからも何度か来ているし、ひさしぶりに来たというわけじゃない。
それなのに、急に知らない場所に来てしまったように心細くなってしまった。
各部署とも多少の人事異動はあれど、表面的にはおそらくなにも変わっていない。
勇作と実夏のことがあるからだろうか。
それともここがもう自分の居場所ではなくなってしまったからなのだろうか。
人が来る気配を感じて、香凛は慌てて足を踏み出す。経理課はエレベーターから一番近いため、あっという間にセキュリティーゲートの前に着いてしまった。入りたくないが仕方がない。これは仕事なのだ、と自分に必死に言い聞かせる。
「失礼します」
ゲートをくぐって恐る恐る経理課に入り、さらっと辺りを見回してみる。
オフィス内には、勇作の姿も実夏の姿も見えなかった。はあ、と思わず口からため息が漏れる。拍子抜けしたと同時に、ほっと肩の力が抜けた。
香凛は担当者に書類を渡して、誰かに声を掛けられる前にとすぐに経理課をあとにした。引き止められているうちにふたりが戻ってきたら最悪だ。
香凛は一課に戻ろうとエレベーターの前まで行ってから、預かりものがあると受付から連絡が来ていたことを思い出した。
ちょうどタイミングよく来た下行きのエレベータに乗り、香凛は受付で預かってもらっていた書類を受け取る。