スノー アンド アプリコット

あたしが部屋に帰らなかったから、スマホにはユキからの着信がおびただしいほど残っていた。
一夜明けて、こちらからかけ直したら、てめえとか昨日どこにいたんだとか心配するだろとか色々言っていたけど、場所だけ指定して構わず切った。
まあ間違いなく来るだろう。そういう奴だ。

まさか自分が今まで散々こなしてきた役回りを別の男にやられて、切られる側に回るとは、夢にも思っていないだろうけれど。

大体、あんなことをされて、おめおめ隣に帰るわけがないじゃない。
そもそも仕事に向かうのだって一苦労だったのだ。昨日の朝、生まれたての子鹿みたいになった身体を鼓舞して、普段使わないバスタブにお湯を張ってしばらく浸かって、あたしはやっとまともに動けるようになったのだ。

なんでユキごときにこんな目に遭わせられないとなんないのよ。腹立たしいことこの上ない。
そのくせ、ふとした瞬間に生々しい感触が蘇る。あたしの肌を這う指、熱い吐息、擦れ合う欲望ーー

「楽しみだなー、お坊ちゃまくんに会うの。」

一井の朗らかな声に、はっと我に返った。
いけない、だから嫌なのよ。もう一度ユキに二人きりで会ったりしたら、どうなるかわかったもんじゃない。

実際、一井がいて助かった。
彼はランチどころか、泊まるなら翌日の服も要るだろうと、きらびやかなセレクトショップで服を一式買ってくれた。
夜はあたしをオープン前の店に連れて行き、試食と称して弟子たちが作った数々の料理を振る舞い、美味しいワインも開けた。
部屋は一時的な仮住まいだから質素なものだったけれど、それでも部屋は一つ余っていて、この後アパートから荷物を運び入れてくれる。

あとは時期を見て、婚約者の大倉と同居の流れに持ち込めば、問題なく事は済むだろう。

ああ、さすがあたし、これでジ・エンド。
厄介事は全て消えて、残るのはの喉から手が出るほど欲しかった、退屈で安定した結婚生活。

さよならユキ、あたしもまさか、あんたを切る日が来るとは思わなかったけど。

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