スノー アンド アプリコット

初めて行ったのは、些細なことがきっかけだった。
「貸した漫画をいい加減返せ」と俺がブチ切れたら、面倒くさそうに、じゃあ取りにくれば、と杏奈が言ったのだ。
その頃俺は、買った漫画を片っ端から杏奈に奪われていって、そのどれもが返ってこないうちに、相当な数を貸してることになっていた。

下校中だったので、後ろに杏奈を乗せたまま、送りついでに寄っていくことにした。

「…ここ?」

案内されたのは、そのあたりの高級住宅街の外れに、こんな建物があったのかと驚くほどの、古く、さびれたマンションだった。

「そーよ。ここがあたしの住んでるところ。」

俺をその一室に招き入れて、杏奈は皮肉な笑みを浮かべた。俺の反応を笑ったのだ。
正直、そんなに古く狭い部屋には、その時までお目にかかったことがなかった。

「豪邸に住んでるお坊ちゃまには刺激が強すぎたでしょ。」

それまでどれだけ暴言を吐かれても必ず応戦していたが、その時、俺は言い返す言葉がなかった。1LDKの奥の和室が杏奈の部屋になっているらしく、学習机にギッシリと参考書や教科書が詰め込まれていた。

「うちの父親ね、ちっさい町工場をやってんの。美人な母親捕まえてさ、それだけで満足してりゃいいのに、このあたりに住んで、娘を嶺山に入れるのが、夫婦の夢だったんだってさ。なんていうの、成功の証的な?」

シングルベッドや、畳に散乱している漫画を集めながら、杏奈は淡々とそんな話をした。

「給料ほとんど学費に持ってかれて、母親は少しでも家計を助けるためとかいってスナックで働いてて、住めるのはこんな汚いとこじゃ、本末転倒だと思うけどね。あたしのこの制服姿を見たら日々の苦労も吹き飛ぶんだって。バッカでしょ。」

バッカでしょ、と言う杏奈の声には軽蔑が滲んでいた。言葉の通り、心の底から両親のことを馬鹿だと思っているのだ、と俺は感じた。
俺にはそれが馬鹿な話なのかどうか、わからなかった。
だけど、馬鹿はキライ、といつも杏奈が言うのを思い出した。たぶん杏奈は、両親が嫌いなのだ。

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