スノー アンド アプリコット

◆◆◆

「東条くん、ちょっといいかなぁ…」

降ってきたか細い声は間違いなく女の声だったので、俺は身に沁みついた習性で、柔らかい笑みを作って顔を上げてしまった。
失敗した。医学科では一番可愛いと名高い女だった。寝不足のまま5限までみっちり講義を受けていたから、回転が鈍っていた。

「…うん、どうした?」

名前は確か、小柳だったか、柳田だったか。下の名前が真由子だったはずだ。可愛いらしい顔立ちだけでなく、奥手そうで、おとなしそうな笑顔が大きな人気の理由で、事あるごとにマユタンとかなんとか男どもが騒いでいる。

「あの、ね、あの…」

まあ、奥手なのは間違いない。頬を染めて一年近くずっと俺をチラチラと見ていたのは知っている。選択する講義もやたら被っている。だから関わりたくなかったのだ。奥手な女に入れこまれると面倒だ。
講義が終わったばかりで教室にはまだ学生がだいぶ残っていて、注目されるのも具合が悪かった。男子学生と軋轢を生む気はさらさら無い。

「免疫学のね、ことでちょっと教えてほしいことがあって…東条くんに聞くと何でもわかりやすく返ってくるって、みんな言ってるから…」

とはいえ、中学生かと突っ込みたくなるほどにもじもじしながら、そんな口実を喉から振り絞っている彼女を見ていると、嗜虐心を煽られるのも納得できた。

「もしよければ、夜ご飯でも食べながら教えてもらいたいなあって…」

いや、でも、この様子だと、処女だろう。
初めてを頂いてしまうと、後々がな…

「あっ、無理だったら、全然いいの!」

無言の俺に早くもテンパって、真由子が胸の前で小さく両手を振った。その怯えように俺はフッと笑ってしまった。
朝から…いや、何なら酔い潰れた杏奈の柔らかい身体を抱えて歩いた昨日の夜から、俺は欲求不満の限界なのだ。適当な女を呼び出そうかとも思っていたが、捌け口が向こうからやってきてしまった。

悪いな、男ども、そしてなんとかマユタン。

「いいよ、何でも聞いて。どこに行こうか?」

俺はいかにもスマートに立ち上がり、真由子と連れ立って興味津々の視線を浴びながら、大学を出た。

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