偽りの姫は安らかな眠りを所望する
それにしても、とティアは誰もいない廊下で顔を赤くする。
主の、しかもこれから国王となるかもしれない貴人の寝台で熟睡してしまうなど、使用人としてあってはならないこと。

わかっていながらも、目覚めた時、最初に目にしたフィリスの瞳が、ティアの中に焼き付いて離れない。今も思い出すだけで、心臓が騒ぎ始めて苦しくなる。
この胸の痛みが、主人に無礼を働いたという罪悪感からくるものではないことくらい、さすがに気づき始めていた。

だがこの想いをはっきりと自覚したところで、伯爵家との縁を自分から否定したティアにはどうすることもできない。

まだ誰もいない厨房でワゴンを片づけ、すぐ裏手の井戸から冷たい水を汲み上げた。

まだ熱の残る肌に叩き込むように冷水で顔を洗う。ツーッと一滴、胸元へと水が垂れ、釦がそのままだったことに気づいた。大雑把に顔と手を拭ってから、それをひとつずつ閉めていく手が止まる。
とっくに吸い込まれ乾いたはずの水滴の跡が、まだ冷たく胸に残っているような気がして、ティアは胸を押さえた。

「おっ! 早いな」

後ろから声をかけられてびくっと振り返ると、これから厩に行くらしいダグラスが両腕を天に突き上げて大きく伸びをしている。「おはようございます」と挨拶すると、にかっと大きな笑顔で返してくれた。

彼が大股で去っていくと、入れ違いですでに一仕事終えたセオドールが向かってくる。採れたての野菜たちの盛られた籠を持つ、真新しい包帯の巻かれた手を見てティアは焦った。

「おはようございます。すみません、昨日は軟膏をお届けできなくて」

まさかフィリスの元で一夜を過ごしてしまったからだなどとは、とてもではないが言えない。
前掛けのポケットを探り、中身が半分に減ってしまっている軟膏壺を差し出した。

「足りなくなったら言ってください」

「ありがとう。でも気にしないで。本当にもう、ほとんど痛みはないんだ。きっと、昨日の手当が良かったからだ
よ」

壺を受け取りつつほわりと笑んでから、おや? と首を傾ける。

「なんだかいつもと感じが違う。……そうか、髪だ! 下ろしていると、ずいぶん大人っぽく見えるね」

セオドールに言われ、ティアは恥ずかしそうに自分の髪を手でまとめる。このままでは邪魔で仕事にならない。だが肝心の結い紐は、たぶんフィリスの部屋にある。

「さっき紐が切れちゃって! ちょっと直してきます」

なにをそんなに焦っているのかわからないできょとんとするセオドールに見送られ、ティアは大慌てで中へを戻った。

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