偽りの姫は安らかな眠りを所望する
「離して、ください」
声を震わせて訴えてみても、フィリスが聞き入れる様子はない。拘束は解かれることなく、ティアは痛みで顔をしかめた。
信じられない思いで真っ直ぐに紫の瞳を見返すと、フィリスは逃れるようについと視線を下げる。そこには先ほどできた赤い痕。
それをみつけたフィリスが微かに目を細め、おもむろに顔を近づけた。
チリリと、火傷のものとは別の痛みとむず痒さがティアを襲う。
「なに、を?」
問い質そうとする声が、喉の奥に張り付いて詰まった。
ゆっくりと持ち上げられたフィリスの顔が目の前に迫る。ゆるやかな弧を描く薄紅色の唇とは対照的な、空虚な瞳がティアを見下ろす。
「おまえたち一族の思惑に乗ってやろうというんだ。異論はあるまい」
再び寄せてくる白皙の美貌から、ティアは目を瞑って顔を逸らす。
目一杯に伸ばされた首筋にかかる彼の吐息から、あの薔薇の香りがするような気がした。
身動ぎもできずにいるティアには、フィリスが作ったほんの僅かな間がひどく長い時間に感じられる。しかし息苦しいほどの速さで鳴る鼓動が、時が止まっているわけではないことを証明していた。
不意にぎゅっと閉じた目の端に、柔らかなものが触れすぐに離れる。続いて腕が軽くなった。
ティアが恐る恐る瞼を上げると、寝台の端に腰を掛け両手で顔を覆い隠すフィリスの姿が映る。
自由になった身体を起こし、気休めにしかならない肩掛けを身体に巻き付けた。
「あの人も、捨ててしまえばよかったのに」
手の中でくぐもるフィリスの声に耳を澄ます。
「ティアの母親のように、家も領地も捨てしまえばよかったんだ。そうすれば……」
ロザリーとルエラとでは状況があまりにも違いすぎる。若い娘が幼い弟とふたりきりでまともな生計を立てるなど現実的ではないことくらい、彼にもよくわかっているはずだ。
それでももしかしたら、という夢物語を考えずにはいられなかったのか。
「フィリス様……」
堪らず伸ばしたティアの指先が軽く触れた彼の肩が、大きく揺れた。
その手を拒むようにフィリスはゆらりと立ち上がると、露台へと続く窓を開け放つ。外はいつの間にか雨が止んでいて、じっとりとした生温い風が流れ込んでくる。
ティアは所在をなくした手を握り締め、口を結んだ。
今でも母親が間違った選択をしたとは思ってはいない。だがその結果、人生が大きく変わってしまった人がいることも事実だ。
だからといって、ティアにはどうすることもできない。
声を震わせて訴えてみても、フィリスが聞き入れる様子はない。拘束は解かれることなく、ティアは痛みで顔をしかめた。
信じられない思いで真っ直ぐに紫の瞳を見返すと、フィリスは逃れるようについと視線を下げる。そこには先ほどできた赤い痕。
それをみつけたフィリスが微かに目を細め、おもむろに顔を近づけた。
チリリと、火傷のものとは別の痛みとむず痒さがティアを襲う。
「なに、を?」
問い質そうとする声が、喉の奥に張り付いて詰まった。
ゆっくりと持ち上げられたフィリスの顔が目の前に迫る。ゆるやかな弧を描く薄紅色の唇とは対照的な、空虚な瞳がティアを見下ろす。
「おまえたち一族の思惑に乗ってやろうというんだ。異論はあるまい」
再び寄せてくる白皙の美貌から、ティアは目を瞑って顔を逸らす。
目一杯に伸ばされた首筋にかかる彼の吐息から、あの薔薇の香りがするような気がした。
身動ぎもできずにいるティアには、フィリスが作ったほんの僅かな間がひどく長い時間に感じられる。しかし息苦しいほどの速さで鳴る鼓動が、時が止まっているわけではないことを証明していた。
不意にぎゅっと閉じた目の端に、柔らかなものが触れすぐに離れる。続いて腕が軽くなった。
ティアが恐る恐る瞼を上げると、寝台の端に腰を掛け両手で顔を覆い隠すフィリスの姿が映る。
自由になった身体を起こし、気休めにしかならない肩掛けを身体に巻き付けた。
「あの人も、捨ててしまえばよかったのに」
手の中でくぐもるフィリスの声に耳を澄ます。
「ティアの母親のように、家も領地も捨てしまえばよかったんだ。そうすれば……」
ロザリーとルエラとでは状況があまりにも違いすぎる。若い娘が幼い弟とふたりきりでまともな生計を立てるなど現実的ではないことくらい、彼にもよくわかっているはずだ。
それでももしかしたら、という夢物語を考えずにはいられなかったのか。
「フィリス様……」
堪らず伸ばしたティアの指先が軽く触れた彼の肩が、大きく揺れた。
その手を拒むようにフィリスはゆらりと立ち上がると、露台へと続く窓を開け放つ。外はいつの間にか雨が止んでいて、じっとりとした生温い風が流れ込んでくる。
ティアは所在をなくした手を握り締め、口を結んだ。
今でも母親が間違った選択をしたとは思ってはいない。だがその結果、人生が大きく変わってしまった人がいることも事実だ。
だからといって、ティアにはどうすることもできない。