よるのむこうに

悩んでも仕方がない。私は私だ。
彼女たちのように髪に手を入れても流行の服を着ても、あんなに垢抜けた美しい女性になれはしない。
どうせムリとわかっているのならすぐに気持ちを切り替えるべきだ。

私は通勤電車でよくそうしていたようにバッグから本を取り出し、目で文字を追うことに集中しようとした。他人の目から意識を逸らしたかった。


けれど、一度劣等感に取り付かれてしまうとそこから意識をそらすのはなかなに難しい。

本の内容は少しも頭の中に入ってこなかった。
本に集中しようと目をこらせば凝らすほど雑踏が気になる。

そんな数十分を過ごしたころ、とつぜん私の手元が影になった。
顔を上げると、先ほど紹介された彰久くんの身内、景久さんが私のすぐそばに立っていた。大きな色素の薄い瞳がじっとこちらを見ているその様子は少し冷たくて人工的に見えた。


「ジェフリー・チョーサーですか」

「えっ。あ、……はい」


あまりにもきれいなイギリス英語の発音に、一瞬何を言われているのか頭が追いつかなかった。
彼は顔を傾けて背表紙を見つめた。

「英文学がお好きなんですか」

「いいえ、これはもともと……大学のころの指定図書だったんです。
恥ずかしいんですけど、きちんと最後まで読まずにレポートを提出して、そのまま十年以上を過ごしてしまったので。
今頃になって時間ができたので読み直してるんです」


私の部屋には今も、大学時代の教科書や文学史の勉強のために購入した本が残っている。

当時はレポートに必要な部分だけを読んで後はほったらかしになっていた。
休職することになって初めて私はそれらの本の埃を払い、最初から読み直している。

最初はリウマチの疼くような痛みから気をそらすためにはじめた読書だけれど、はじめてみるとやはり好きで勉強した分野だけに面白かった。

景久さんは神経質そうに見えた目元を少し和らげ、チョーサーの本を見つめている。
もともと古本で購入したそれは長い年月埃をかぶって黄ばみ、ペーパーバック独特の紙質のせいか、よく触る部分は灰色に変色している。

明らかに豊かで整頓された生活をしていそうな彼に自分の本を見られるのは少し恥ずかしかった。


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