よるのむこうに

「僕もアメリカでチョーサーのエルズミア装飾写本を見たことがあります。あれは美しい本でしたね」


私は顔を上げた。

英文学史の授業でエルズミア装飾写本については聞いたことがあった。
当時の私は学生でお金がなく、海外に行く旅費を捻出するなんて贅沢は決してできなかった。

文学史に出てくる本が今でも見ることができる。
その事実にロマンを感じはしたけれど、実際に海を越えて本を見に行く人がいるなんて考えもしなかった。


「アメリカって……ハンティントンライブラリーの、ですよね?すごい、見てみたいです」

学生時代にただ情報として知っただけのエルズミア写本を実際にこの人はその目で見たのだ。学問として記憶した情報の羅列が初めて現実味を帯びる。

彼は私の反応に優しい笑みを浮かべた。スタジオで挨拶を交わしたときの冷たい目がまた少し和らいだ気がした。


なんだ、彰久君が言うほどいやな人じゃないじゃないか。
少しスノッブだけど、景久さんほどだけ上品で優雅な人ならそれも似合っている。むしろ、この気品溢れる人が突然天馬のようにチンピラ風の口調で話し始めるほうが怖い。


「機会があれば一度行ってみるといいですよ、併設の美術館のコレクションも素晴らしいものでした。庭も広くて、テーマに沿った植物が植えられているので一日いても退屈しません。美術館のあるカリフォルニア州は気候も安定していますし、おすすめです」

「そうですね、いいな」

行ってみたい。

今まで仕事が忙しくて海外にいってみようなどと思う余裕もなかった。
海外にいくどころか寝る時間がもう少し欲しいとかゆっくりご飯を食べたいとかそんなレベルで忙しかった。

今は病気になって休職するようになったのだから、学生のころにお金がなくて見られなかったものや行けなかった場所に行くのもいいかもしれない。もちろん資金が問題になってくるけれど、貧乏旅行ならできるかもしれない。

リウマチになってしまったことで、私は今後の医療費や働けなることにばかり気をとられていたけれど、時間があるからこそできることに興味を持つのもいいかもしれない。
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