ここで息をする
それはお互い緊張を紛らわすためのやりとりだったけど、あまり効果はないようだった。気を抜くと口から心臓が飛び出してきそう。
航平くんの表情も硬かった。私が知る限り水泳の試合前はこんな顔にならずに冷静に集中していたから、緊張しているらしい顔に珍しさを感じる。
航平くんにも、緊張するようなことあるんだな……。
まだ私が、水泳をやっていた頃。いつも大会で緊張などしていない航平くんの姿は、見るたびにとても羨ましかった。私は緊張して、いつも潰れそうになっていたから。
周りの期待や声援を受けても、ただ自分のペースを保って泳ぐ。そして最高の結果を自分のものにする。
その姿がかっこよくて尊敬していた。私には真似出来ない堂々とした姿は、いつも眺めることしか出来ない遠い存在のように思えていた。
でもそんな憧れの存在は今、いつもの水の世界とは違う映画の舞台を前にして、あの頃の私のように緊張している。
航平くんはメンタルも泳ぎの技術も完璧だとすっかり思い込んでいただけに、自分と同じように必死に台本を見ながら深呼吸している姿には面食らってしまった。
……でも、そうだよね。完璧な人なんて、いるわけないもんね。
完璧に見えていたとしても、それはきっと周りにそう思わせるほど努力を積み重ねているだけだ。最初からそんな人はいない。
そんな当たり前のようなことがふと、とても大きな意味を持って主張してくるように脳裏をかすめて、私は緊張から解き放たれたように頬を緩めた。
眩しくて遠かった憧れの幼馴染みの新たな一面には、幻滅する思いではなく親近感が湧いてくる。そばに居たのに何も分かってなかったんだと思うとおかしくて、私はひっそりと笑っていた。
「そろそろ撮るけど大丈夫か?」
ちょうど心が穏やかになった頃、高坂先輩が私と航平くんに問いかけた。