一寸の喪女にも五分の愛嬌を
「あ……」

 立っていた人影が私を認め、遠慮がちに声を上げた。

 立ち止まった私に、いくらか迷うように間を開け、ゆっくりと足を踏み出しこちらに近寄る。

(来るな……こっちに来るな)

 強く思うのに声にならない。

 お酒のせいなのか、息苦しくて胸が圧迫され吐きそうになる。

 やがてその人影は私の前で立ち止まるや、静かな声で言った。


「薫……久しぶり」


 それは聞き飽きるほど聞いてきた声で、聞きたくても聞けなくなった声で、そして今更聞きたくもない声。


 北原宗一郎――昔の彼氏の声だった。


「少し、話をしてもいい?」

 相変わらず穏やかで優しい口調。

 全ての動きが私の脳内の指令を無視しているのか、指先さえ動かせない。

 立ち止まったままの私の姿を肯定の返事と受け取ったのか、宗一郎は「どこか店でも入る?」と問いかけてきた。

 聞きたくない。今更、彼の話す言葉の何一つ聞きたくなんてない。

 それなのに拒むこともできず、ただ立ち尽くす。

 私が動く意志を見せないことに気がついた彼は、諦めたような溜息を吐き、肩を落とした。
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