火恋 ~ひれん~
 車が静かにアパートの前に到着して、わたしはもう一度、隣りに座る彼に丁寧にお礼を言った。

「本当に今日は有り難うございました。色々とお手間を取らせて申し訳ありませんでした」

「いや。・・・上まで送ろう」

 恐縮したけれど、ドアを開け降りてしまった彼を追うように外階段を昇る。
 あちこちの部屋から灯りは漏れているけれど静かな深夜。靴音をなるべく殺しアイザワさんの背中を見つめながら昇る。

 忘れないように。どこかでこの背中を見つけられるかも知れないから。
 無意識にそんなことを思っていた。
 だって彼は命の恩人だもの。わたしにとっては特別なんだもの・・・。
 貴方が彼方に忘れ去ってしまっても、いつか何かを返せる日が来たらいい。
 儚く願っていた。

 部屋の前に着いた時。これが最後なんだと思い切って勇気を振り絞る。

「あの。・・・お名前と、どちらの組にいらっしゃるのか教えていただけませんか」

 どんな表情をされるか怖くて俯き加減に。思わず組んだ両指をきつく握りしめる。
 一瞬の間の後。「知ってどうする」と冷ややかな声色が返って微かに躰に震えが走った。それでも、これだけは。わたしのどこにそんな芯が備わってていたのか。思い返しても不思議なくらいだった。
 顔を上げ彼の目だけを必死に見つめて。

「憶えていたいだけです。・・・忘れたくないから」

 刹那、彼の大きな掌に頭のうしろを掴まえられて動けなくなっていた。声を出す間もなく、口が塞がれて何かでいっぱいになる。どうしてキスをされているのか。理性は混乱し、感情は昂ぶる。

 驚きながら受け容れて。大波に叩きつけられても、流れに身を任せるように。
 離れてもまた繋がり、殊更深くなってゆくキス。胸の奥で炎が燃え立つ。
 ・・・いけない、これ以上。
 躰が熱を熟(う)む。消せなくなる。おねがい、煽らないで・・・!
 警告灯が激しく点滅を繰り返している。
 でも離れられない。離れたくない・・・・・・。このままわたしを浚って連れ去って、どうか。

 初めて味わう嵐だった。寸でのところで自分が何者かを思い出せた。呑み込まれる前に。


 やがてわたしを解放した時。彼は黙って見つめ、静かに言った。

「忘れろ。いいな、・・・織江」




 

 貴方は少し狡いの。わたしの名前を呼んで置き去りにしたの。
 何も残さずに・・・・・・。
 
  

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