火恋 ~ひれん~
 ビュッフェでの朝食を終えて部屋に戻り、帰り支度を始める。荷物は少ないから、使った物なんかを簡単に片づける時間にも余裕があった。
 渉さんは少しダークめなスーツに着替えていた。坂下さんが用意したのだとしたら、マンションに帰っても寄らずにそのまま仕事に向かうつもりかも知れない。

 砂時計の砂がゆっくりと落ち始めて・・・約束の“12時”が訪れたら夢から醒める。永遠なんて無いんだって分かっているから。渉さんがわたしの為にだけ存在している今この時が、果てしなく愛おしい。 

 ・・・本当は。渉さんが辟易するくらい泣いて、引き留めて、ずっとこうしてたいって駄々をこねたいの。藤君には、聞き分けのいいフリした小賢しい女って言われたけれど、我慢と諦めしか選択肢に無かったわたしには、生きる術みたいなものだわ。

 だって嫌われたくない。疎まれたくない。
 親の顔色を窺って。両方から捨てられないように精一杯、良い子でいて。わたしはそういう風にしか生きられないから・・・思う事を隠して、違う仮面を被ってしまえるの。内心で自嘲の笑みを逃す。


「織江」

「はい」

 呼ばれて、ボストンバッグのファスナーを締め、畳から立ち上がる。
 窓際の応接イスで何本目かの煙草をくゆらせていた彼は、わたしが傍まで寄ると灰皿で火を揉み消した。

「・・・来い」

 膝の上に抱き上げられて、巻きスカートだから心持ち動きが不自由。渉さんの肩に掴まるようにすると、目線が少しだけわたしが上になった。
 整った顔立ち。どこが、っていうより全部。好き。見えている貴方の全部が好き。・・・・・・見えないところが、たとえ何であっても。わたしは愛しています。

 渉さんは何も云わず、ただ深くわたしを見つめた。読もうとしても深すぎて。伸ばした指先から呑まれていくような。

「・・・・・・俺はお前の為だけには生きてやれん」

 やがて開いた口から静かにそう告げられた時。一瞬で心臓のひび割れる音がした。
 存在を拒絶されうる恐怖と絶望が躰中を渦巻き、蒼白になって呼吸すら忘れたわたしを。けれど彼はそのまま続ける。

「云ってやれる事も無い。傍に居てやる事も出来ん。織江を俺の人生に巻き込んだのは間違いだ。・・・お前は、ユリの言うように普通に生きろ。今の内に引き返せ」

「嫌ですっっ・・・!!」

 渉さんの言葉を最後まで待たずに、わたしは鋭い声を上げていた。
 いったい自分のどこに、こんな激しい感情が仕舞いこんであったのか。

 わたしが成人するのを今かと心待ちに、晴れやかな顔で離婚をして。もう家族でも何でも無いから、好きに生きなさいと両親から手切れ金を渡された時でさえ、怒りの感情なんて湧かなかった。
 それぞれに新しい家族とやり直すから頼る事はしないでくれと、謝罪の言葉どころか絶縁を突き付けられても、憤りさえ生まれなかった。

 渉さんが僅かに目を見張り、驚きの表情を浮かべている。
 わたしは怒りなのか悔しさなのか、それすら分からない激情に小さく肩を震わせて彼をきつく見返していた。
< 86 / 189 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop