奏 〜Fantasia for piano〜
「そっか……そうだよね。五歳だもんね」
「ごめんね。じゃあ、俺、こっちの道だから」
郵便局のある曲がり角で、奏は左へ足を向ける。
私の家はワンブロック先を右に折れるので、ここでお別れ。
陽光を正面から浴びる背中を虚しく見送っていたら、心に焦りが湧いて、色濃く広がっていった。
一番聞きたいことをまだ聞けてない。
ピアノはどうしたの?
それだけは、聞いておかないと……。
「待って!」
自転車を押して走り、再び隣に並ぶと、眉間に微かにシワを寄せながらも奏は足を止めてくれた。
「まだなにかあるの?」
「あるよ。今までフランスにいたということは、ピアノの勉強してたんだよね?
パリかリヨンの、コンセルバトワール? 卒業したから日本に帰ってきたの? それともーー」
それとも、ピアニストになる夢を諦めて帰ってきたのかと、聞こうとして言葉が続かなかった。
それまでは不愉快という感情を顔に出していた奏が、急に表情をなくしてしまったから。
怒っているようにも機嫌が悪いようにも見えないし、もちろん嬉しそうでもない。
茶色の綺麗な瞳は、薄いベールが掛けられたかのように、ぼんやりとくすんで見える。
突然、すべての感情を切り離してしまったような彼に戸惑っていると、無表情のままに奏が呟いた。
「ピアノを辞めたんだ」
「ど、どうして……」
「綾には関係ないよ。
悪いけど、二度とその話はしないで」
淡々とした口調でそう言い残し、彼は足早に去って行った。
姿が見えなくなっても、私はこの場から動けずに、ショックの中をさまよっている。
夢を叶えるために、フランスに行ったんでしょ?
私達はまだ十七歳で、夢を諦めるには若すぎると思う。
それなのに、どうして辞めてしまったの……。