君の声が聞こえる


歓声が響く。
まるで落ちてくる彩花の心の声のように、キラキラとした世界に落ちていく。

 色付いた関係は、彩花と駆琉の何もないスペースを埋めていくかのようだった。
 真っ白な世界。
 そこには何も恐ろしいものはない。何も考えることなんてしなくていい。
 その世界の主人公は彩花で、彩花が好きに色を塗って彩花が好きに描いてもいい世界。

(ねぇ彩花さん、君は本当に綺麗だ)

 誰よりも真っ直ぐに進むクロール。
 ほとんど水しぶきが立てず、生まれつき柔らかい肩の間接を活かして最短の距離を切り裂いて回される腕。
 他の人間がバシャバシャと水しぶきと音を立てて進む間に、彩花は前から引っ張られているかのように突き進むのだ。


誰も君には追い付けない。
誰も君には敵わない。
誰も君を止めることなんてできない。


 だって、この世界は彩花のもの。
 ぐんぐんと皆を突き放し、彩花がこのレースを完全に支配してしまう。
 羽が生えているようだった、見えない羽が生えた彩花が水の中を飛んでいく。
 水の中では何だって成れる、と彩花は言った。それは本当だったんだ。

(ねぇ彩花さん、聞こえる?)
 割れんばかりの歓声が落ちる。
 キラキラと輝いている水面を上から見下ろして、駆琉は必死に涙を堪えた。
 クロールで泳ぎながら、彩花が微笑んでいるように見えたから。

「彩花、楽しそう」
 希子が駆琉の隣で、呟いた。
 真っ白な世界。
 この世界は君のもの。
 君だけのもの。
 この歓声も、この時間も、この記憶も。君の美しいクロールに奪われ、君のものになってしまう。

『ねぇ駆琉くん、見てる?』
 彩花の声がして、駆琉は思わず笑ってしまった。
 見ているに決まってる、と心の中で呟く。心の中で呟いたって聞こえないけれど。

 でもね、君しか見えないんだ。
 君の声しか聞こえない。
 痛くなるほどの歓声の中、駆琉には綾かの声しか聞こえなかった。君の声がする。君の声が聞こえる。

 この世界は君のもの。
 誰が君を止められるって言うの?
 誰が君に追い付けるって言うの?

割れんばかりの歓声。
心臓の音ががなりたてる。
電光掲示板が光り輝く。

『安西 彩花選手! 日本高校、200メートル自由型、日本高校新記録!』

 を示すマークが、彩花の名前の後ろで輝いていた。
 若葉が叫び、希子が泣き出し、勇介が校規をかざした。
 プールでは彩花が会場を見渡して、それから顔をくしゃくしゃにしながら笑って右手を突き上げた。

 本当に120秒後にドキドキすることが起こった。
 記録としては120秒を切っていたが、その歓声や彩花の笑顔はちょうど120秒後くらいで。
 彩花の隣では橘が悔しげに自分の髪をくちゃくちゃにしていた。
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