君の声が聞こえる
「彩花!」
「あやちゃん!」

 選手入場口から控え室に帰ろうとした彩花は、観客席のギリギリまで若葉や希子が来ていることに気付いて立ち止まった。
 地元の新聞の記者が一斉にフラッシュを炊く。
 泣きじゃくる希子や歓喜にわく若葉や勇介の後ろで、駆琉は呆然と立ち尽くしていた。

 実感がわかない。
 真っ白な世界が余りに気持ち良かったから。
 本当に、あの瞬間だけーーー……世界は自分のものだった。彩花の世界に駆琉はいた。

「駆琉くん!」

 彩花の声が駆琉を現実世界に引き避ける。
 200メートル自由型で日本高校新記録を出した若きスイマーに名指しで呼ばれた人物としての興味だろうか、新聞のカメラが駆琉に向けられる。
 彩花に一目お祝いを言おうとしていたファンや、学校の応援団、希子や若葉、祐介も駆琉を向いた。

「おめでとう、彩花さん」
 何だか気恥ずかしい。
 それに彩花と距離を感じる。
 観客席とプールサイド、それ以上の距離を。
 駆琉のお祝いの言葉に彩花はにこりと笑い、右手を差し出した。
 握手か、と駆琉もその手を握ろうとするーーー……。

「ねぇ駆琉くん。私達、付き合おう」

 誰かが「え」と声をあげた。
 日本高校新記録を出したばかりの天才スイマー、完全無欠の美しき安西 彩花。
 そして観客席で応援しているだけの、水泳を始めたばかりの奏 駆琉。
 誰がどう見たって不釣り合いだ、そんなこと駆琉にだってわかる。

「あなたがいてくれないと、私は泳げない」

 この世界は君のもの。
 真っ白な世界は君のもの。
 キラキラと輝く宝石の世界の国のお姫様。

「あなただって、私がいないと息ができない」

 『あなたを好きになると思う?』。
 そう彩花はあの日、駆琉に言った。
 いつだって情けなくて、カッコ悪い自分なんて彩花には相応しくない。

「でも、僕は」
「私のために泳いでくれてありがとう。水泳を好きになってくれてありがとう」
「違う、僕は。僕は、彩花さんがいないと……」

 彩花がいないと泳げなかった。
 彩花がいないとここにはいなかった。
 彩花の声が聞きたくて、彩花のクロールが見たくて、彩花にまた泳いでほしくて。
 彩花の声が聞こえたから、彩花のために泳いできた。


「私は奏 駆琉くんが好きだよ」


 泣きじゃくりながら、駆琉は彩花の手を強く強く握った。
 君の声が聞こえたって、本当は何も聞こえていない。
 ずっと君が誰かもわからなかった、君にずっと会いたかった。
 君がどんな人かと想像していた。

 想像していたよりも君は強くて美しくて、僕の心を掴んでしまう。
 そして思っていたよりもずっと僕は弱くて情けなくてカッコ悪くて、君に好きになってもらえないと思っていた。


「僕も、安西 彩花さんが、好きです」


 僕の世界は君のもの。
 君の声しか聞こえない。
 君の声が聞こえる。
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