愛しすぎて、寂しくて
夫 タケル
マスターからオーナーが結婚すると聞いて
アタシは本当にビックリした。

相手のナナコさんとはちょっと前に付き合い始めたばかりだったのに…

正直ショックだった。

アタシがここに来てからオーナーは一度も彼女らしき人を紹介したことがない。

実はオーナーもマスターもゲイなのかも…とか疑った事もあった。

オーナーは一瞬で恋に堕ちたようで
あっという間に婚約、結婚となったようだ。

ナナコさんのことはお店で見かけたことがあるが、
まさかオーナーの恋人だったとは結婚するまで知らなかった。

オーナーの披露宴は都内の大きなホテルで豪華に開かれた。

アタシはそれ見てオーナーは本当にただのお兄さんになったと思うことにした。

その頃アタシにはタケルという新しい彼氏がいた。

弁護士の卵で今まで付き合ったタイプとは全く違っていた。

頭も良くて穏やかでカッコだって悪くない。

だけど女の扱いは全然で
ときめくような言葉も、感動するようなプレゼントもタケルからは貰えなかった。

それでもアタシはタケルのそんな不器用な所も愛してた。

タケルの事はオーナーにもマスターにもまだ文句を言われたことがない。

タケルは二人に怯む事もなく、マイペースでアタシを愛してくれた。

仕事はかなり忙しかったけど…必ず夜は迎えに来てマンションまで送ってくれる。

時には部屋に泊まることもあった。

隣に住むマスターはそんなタケルの姿を何回か見かけてるけど文句は言わなかった。

アキラとあんな風に別れさせた事をやり過ぎたと反省してるのかもしれない。

アタシはオーナーの結婚以降、タケルと自分の結婚を考えていた。

未来を夢見たのはタケルが初めてだった。

タケルも結婚には前向きだった。

なぜかと言えばタケルには家族が居なかったからだ。

両親は赤ちゃんだったタケルを施設の前に捨て、
両親からもらったものはその体とタケルという名前だけだったそうだ。

だからタケルは家族に憧れていた。

結婚という言葉もタケルから言い出した。

「結婚したら毎日ジュンのご飯が食べられるね。」

タケルはアタシの作るご飯が世界で一番好きだと言ってくれた人だ。

「結婚したいの?」

とアタシが聞くと

「うん。」

とタケルは頷いた。

タケルと結婚すればオーナーからもマスターからも干渉されなくなると思った。

もちろんタケルを愛してるからだけど
アタシが結婚したい理由の1つにオーナーとマスターから離れたいという気持ちがあったから。

そしてオーナーの結婚でアタシの心が大きく乱れていたのも事実だった。

「いいよ。結婚する。」

今から思うとその時のアタシたちはあまりにも結婚というものを簡単に考えてた。

でもアタシはあの時とにかくオーナーと同じように早く既婚者になりたかった。

とりあえずマスターに報告だけしておこうと思った。

「明日、籍入れるから。」

マスターは暫く言葉を失っていた。

「明日?」

「うん。」

「何考えてるんだよ。
あの男、少しはマシだと思ったけど案外いい加減なんだな。」

案の定マスターはいい顔をせず、まだ早いと反対した。

アタシの決心はオーナーとマスターの過剰な干渉への反抗心から生まれたものだ。

アタシは心の中で舌を出した。

「オーナーにはマスターから言っといて。

お願いだから邪魔しないで。

タケルは弁護士だし、優しいし、尊敬できるし…
すごくしっかりしてるから安心して。

アタシはタケルのためにも早く家族をつくってあげたいの。」

「弁護士って言ってもまだ見習いみたいなもんなんだろ?
そんなんでやっていけるのかよ。

給料だってまだ少ないだろうし…それまで待ってもいいだろ?」

反対されればされるほどアタシは意固地になった。

「タケルといると未来が広がるの。
あそこにいるとオーナーやマスターに縛られて
アタシは成長できないもの。」

マスターは何も言い返さなくなった。
ただすごく寂しそうな顔をしてアタシを見ていた。

「店はまだ辞めないけど…このマンションは引っ越す。
新婚生活までマスターに監視されたくないから。」

マスターから次の言葉を聞くまで時間を刻む音がやけに耳に障った。

「ジュン…ホントにそれでいいのか?
俺のこと諦めるんだな?」

マスターはとうとう最終兵器を出してきた。

アタシはすごく動揺してたけど…
もうこの手には乗らない。

「何にも出来ないくせに。」

こんなこと言えるのはタケルと結婚するからだ。
アタシはもうオーナーにもマスターにも惑わされたりしない。

それなのにマスターはアタシの腕を掴んで引き寄せるといきなりキスをした。

アタシはあまりにビックリして動けなくなった。

それでもマスターの唇が温かくてアタシは目閉じた。

狡い人だと思った。

明日結婚するのにな…

アタシはマスターの顔を見ずに部屋を出た。

自分の部屋に戻るとタケルが来ていた。
アタシは大きく動揺してタケルの目を見ることが出来なかった。

「保証人の欄、一人は俺の上司だけど
もう一人はジュンの知り合いのがいいと思って…

ジョウさんに頼めるかな?」

たった今、キスしたばかりの男に婚姻届の保証人なんか…

だけどそれのがお互いスッキリするかも知れない。

「タケル、ご飯まだでしょ?
アタシ支度しとくから
悪いんだけどタケルが頼んできて。

もう部屋にいるから。」

タケルは何の疑いもなしにマスターから保証人のサインを貰ってきた。

「何か言ってた?」

「うん。
わかったってサインしてくれて
おめでとうって言われて…
ジュンのこと頼むなって言われた。

何だか感動した。

ホントのお兄さんみたいだった。
ジョウさんてマジでカッコいいよね。」

ホントのお兄さんはキスなんかしない。
おめでとうって…どういうつもりなのかと思った。
マスターは本当に最低だ。

アタシをこんな気持ちにさせてお嫁に出すなんて…

アタシは気が変わらないように
その婚姻届を深夜に市役所までタケルと二人で出しに行った。

アタシは鮫島ジュンから桐原ジュンになった。

オーナーには事後報告になった。

勝手に結婚したことはものすごく怒られたけど
今のオーナーはナナコさんの事で頭がいっぱいだ。

アタシはマスターの隣の部屋を出て、タケルの狭いアパートに移った。

そしてタケルとの生活が始まった。

始めのうちは楽しくて毎日が幸せだった。

結婚ってこんな毎日がずっと続くものだとバカみたいに信じていた。

そしてアタシたちは全てのことをあまりに軽く考えていた。

恋愛の延長みたいな生活はちょっとの事で呆気なく崩れてしまう砂の城だった。

タケルはアタシの中途半端な気持ちのせいで次第に変わっていった。

マスターのあの夜のキスが無ければ
アタシたちの関係があんなに早く終わることはなかったと思う。

アタシは結婚してもずっとあのときのキスを忘れることができなかった。

この世でマスターほど悪い男は居ないと思った。

あれから妙に意識してマスターとは目も合わせられなくなったのに
マスターは何でも無いんだろうか?

何一つ変わらない態度に腹が立つ。

そんなときだった。

夜のバイトの子が事故にあって人の手配ができない時は
夜の手伝いもすることになった。

結婚してから夜は一度も入ってなかったのに…

閉店後のカフェでマスターと二人きりになりたくないからだった。

「新婚生活はどうだ?
うまくやってんのか?」

そんなことを二人っきりのこの場所で平気で聞けるほどマスターには何でもないことだったんだろうか?

それともマスターはキスしたことすら忘れてしまったんだろうか?

あれからずっとマスターを見るたびに
ドキドキして、おかしくなりそうなのに…。

「幸せですよ。
マスターも早く結婚したら?」

アタシは思いっきり背伸びする。
浅はかにも結婚についてはマスターより先輩だと思ったから。

「そっか。ダンナは迎えに来るの?」

「今は仕事忙しいから…まだ帰ってないんじゃないかな?」

「こんな遅くまで仕事かよ。
新婚なのになぁ。
送ってやるよ。」

「いいよ。一人で帰れる。」

帰ろうとするアタシをマスターは引き止めた。

あのときみたいにアタシの手首を掴んで…

ドキドキした。身体が熱くて顔が火照る。
マスターはそんなアタシに気がついてしまっただろうか?

「いいから乗ってけ。」

指一本でも触れるとおかしくなる。
力が抜けそうで立ってるのがやっとだ。

しかもマスターはバイク通勤だ。
あの逞しく大きな背中にしがみつかなきゃならない。

マスターはアタシにヘルメットをかぶせて
後ろの座席に座らせた。

「ちゃんと捕まれ。」

そしてアタシの腕をとって自分の腰を掴ませた。

アタシはマスターの腰に手を絡めて思い切り抱きついてみる。

マスターに今のアタシの鼓動を感じて欲しかった。

バイクから降りる時、転びそうになってマスターに寄りかかってしまった。

マスターは顔色も変えずにアタシを抱きかかえた。

「おやすみ。また明日な。」

結局、マスターは何事にも動じず、何も感じないまま帰って行く。

バイクを見送って家に入ろうとすると
その様子をタケルが見ていた事に気がついた。

「今、帰り?」

タケルは頷くだけで少し不機嫌そうだった。

「ご飯食べた?」

「ジュンさぁ、あの店やめてくれないかな?」

確実にタケルはアタシの事を疑っていた。

「辞めてどうするの?
タケルのお給料だけじゃまだやっていけないよ。」

「あの店辞めないのは俺の薄給のせいか?
夜働くのは嫌なんだ。
何もあの店じゃなくてもいいだろ?
それともあの店じゃなきゃいけない何かがあんの?
ジョウさんと逢えなくなるから?
俺たち結婚したんだよ?」

「疑ってるの?
アタシたちそういうんじゃ無いって知ってるでしょ?」

「アタシたち?」

タケルはその言葉に過剰に反応してそれから暫く口をきかなかった。

それから事あるごとにタケルはアタシを疑った。

そしてそんな家に帰りたくないのか
タケルは今まで以上に毎日帰りが遅くなって…
事務所に泊まることもしょっちゅうで
逢えなくなるばかりで話し合う時間もなく
アタシはいつもこの部屋で一人だった。

一度崩れた砂の城はどんどん波に流されていく。

気持ちはすれ違ってばかりで
それでも別れたくなくて頑張ってみたけど
どうにもならなくなって
結婚して1年でアタシは家を出た。

オーナーにもマスターにも言えなくて
一人で小さなアパートを借りた。

家を出て3ヶ月後タケルが離婚届を持ってきた。

「もう自由にしてあげるよ。
あの人の所に戻ればいい。」

「今更だけど…ホントにそんなんじゃなかった。」

「ジュンは自分の気持ちがわからないだけだよ。

ホントは結婚する前から気づいてた。

だからそうなる前にジュンを俺のものにしたかったんだ。

でも失敗だったな。
やっぱり気持ちには逆らえないんだ。」

アタシは返す言葉を失くした。

考え無しの結婚はタケルを深く傷つけてしまった。

そしてアタシの心にも大きな傷が残った。

アタシたちは他人になって
アタシは鮫島ジュンに戻った。
< 6 / 24 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop