どうしてほしいの、この僕に
 どうやら事件を知らなかったらしい。
「君みたいな子がひとりで歩くのは危険だぞ」
 俺を見上げる目に不安そうな色が浮かんだ。そしてつま先に視線を落とす。
「本屋さんに行こうと思って……」
「じゃあそこまで送るよ」
 彼女は小さく頷いた。
 自転車を押して彼女と並んで歩く。
 俺が口を開く前に、彼女のほうから話し始めた。
 自宅はもっと遠いのでさらに電車へ乗り換えること、時折買い物をするのにバスを途中下車すること、学校の周辺にはコンビニすらないこと。ユーモアを交えてつらつらと話す彼女の声がとてもかわいいので、俺はいちいち真面目に相槌を打った。
 できるだけゆっくり歩いたのに、あっという間に本屋に着いてしまった。
「ありがとうございました」
 彼女は俺に行儀よく頭を下げ、店内へと消えた。最後に見せた笑顔がまぶしくて、まともな返事もできないまま、俺はその背中を見送った。
 自転車を押して店の裏側へ回る。なぜだか恥ずかしくて、この本屋が俺の家だと言い出せなかった。でもこれでよかったのだ。彼女が気兼ねしないとも限らないから。
 俺は久しぶりに晴れ晴れとした気分だった。
 そして思った。
 あんなにきらきらして、かわいいものが、この世に存在するのは反則じゃないか、と。


 母を亡くしたのはもう5年も前になる。
 当時中学生だった俺はあまりにも無力で、母が抱えていた問題のひとつも肩代わりすることができなかった。それどころか、俺を出産後に発症した産後うつが母の寿命を劇的に縮めてしまったのだと、母が亡くなってから知った。
 だから俺は母の明るく笑った顔が思い出せない。
 仏壇には比較的穏やかな表情の写真を置いてあるが、俺の思い出の中で母はいつも今にも泣きだしそうな顔でうつむいてばかりいた。
< 235 / 245 >

この作品をシェア

pagetop