伯爵と雇われ花嫁の偽装婚約

家族の仮象

「俺の中の母の記憶は少ないんだ」

ライルはベッドの縁にクレアを座らせると、自身もその横に並んで腰を下ろし、静かに話し始めた。

「それでも、母は口数が少なくて、大人しい人だったことは覚えてる。いつも穏やかに微笑んで……父の横に控えめに佇んでいるような感じだった。父は母を溺愛していて、昼間の外出も二人一緒だったし、夜会も必ずそろって出席していて、そんな仲の良い両親が俺は好きだった。だけど……」

ライルの表情が少し曇った。

「……俺が五歳頃になると、母は時々体調を崩すようになった」

ライルの母は、やがて外出も出来なくなり、部屋からも出られなくなって、食事の時間にも顔を出さなくなった。

「父は事業を手掛けていて、忙しかったから、俺はこの屋敷の中で、家庭教師や使用人と接する時間以外は、一人で過ごしていたよ」

淡々と語るライルの言葉に、クレアはじっと耳を傾けていた。

「でも、時々アンドリューが遊びに来てくれたから、そんなに寂しいとは思わなかった。日頃の鬱憤を晴らすみたいに、二人でいたずらをして、よく叱られたよ」

「あ、それ、アンドリュー様から聞きました。びしょ濡れになったり、虫をポケットに入れたり、ですよね?」

クレアが思い出したように微笑むと、

「あいつ、そんな話もしてたんだな」

と、ライルも口元を緩めた。だが、すぐに真顔に戻る。

「……あの頃は母が苦しんでることにも気付けなかった。ほぼ毎日のように部屋に見舞いに行っていたけど、そのうち行けなくなったんだ。父が許してくれなかった」

「え……なぜですか……?」

「母は精神を病んでしまっていて……とてもじゃないけど、誰かに会えるような状態ではないと、父から聞かされた。それでも、いつかは元気に会えると信じて疑いもしなかった。そして、二年が経ったある日……母は亡くなった」



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