伯爵と雇われ花嫁の偽装婚約
老婦人と出会ってから数日たっても、クレアはずっと気になっていた。

あれから、ちゃんと帰れただろうか。やっぱり、通りまで見送りに出た方が良かったのではないか。

そんなある日。

クレアの店に、あの老婦人が再び現れた。

その日は、以前のように全身真っ黒ではなく、落ち着きの中にも華やかさのある、赤紫のコートと、同色のベルベット調の帽子を身に付けていた。それに、ちゃんと従者らしき者も後ろに付いてきている。

「ごきげんよう」

「……奥様……!」

クレアは驚いて、老婦人の元へ駆け寄った。何と呼んでいいか、名前も分からなかったので、思わず、奥様、という言葉が口から出た。

「ご無事だったんですね、良かった……」

クレアの表情が明るくなった。

「あら、まあ、そんなに心配してくれていたなんて……嬉しいわ」

老婦人はクレアの手をぎゅっと握った。その手は温かかった。

「この前は、お世話になったわね。本当はもっと早くにお礼に伺いたかったんだけど、少し体調を崩してしまって……今はもう、大丈夫よ。あなたのお陰で元気になったの」

「そんな、特に私は……」

「いいえ、本当にあなたのお陰なのよ」

老婦人はにっこり笑った。意味は良く分からなかったが、その笑顔がとても美しくて、クレアは思わず見とれてしまった。今でも充分美しいのに、若い頃はもっとその美貌は輝いていたに違いない。

「何かお礼をしたいと思ったんだけど、何がいいか、ずっと考えていたの」

「お礼なんて、いいんです。奥様がお元気になられただけで」

「いいえ、それでは私の気が済まないわ。それで、考えたんだけど……私をこのお店のお客にしてもらえないかしら。定期的な客として」

「えっ……」

「この前、いただいたハーブティー、とてもおいしかったわ。すごく気に入ったの」

「……」

突然のことに、クレアは戸惑った。

わざわざこんな小さな店から商品を買わなくても、貴族に相応しい買い付け先が他にあるはずだ。この店の物が、高貴な人の口に合うのかも自信がない。

だが、現実的なことをいえば、定期購入の顧客は収入の安定に繋がるので、その申し出はとてもありがたく、嬉しかった。

「……ありがとうございます。喜んで頂けるよう、一生懸命頑張ります!」

クレアは頭を下げた。

こうして老婦人こと、シルビア・コールドウィンはクレアの店の顧客になったのだった。

クレアがアディンセル伯爵家の者だと分かった今も、働く彼女に理解を示してくれる数少ない人物の一人だ。



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