伯爵と雇われ花嫁の偽装婚約
「あなたの世界」と、はっきりと言われ、目には見えないがまだこの社会で確実に立ちはだかる貴族との壁というものを認識させられ、自尊心を傷付けられたトシャック氏は、ギリッと唇を噛んだ。

だが、怒りを露にすることは出来ない。相手が悪すぎる。

顔を歪めたまま、トシャック氏は無言でその場を立ち去った。





「ケガは無かった?」

ライルが振り返る。相手を威圧するような雰囲気は消え、先ほどの柔らかい口調に戻ったライルに、クレアは幾分かホッとした。

「……大丈夫です。……ありがとうございました、伯爵様」

「ライルと呼んでもらって構わないよ。君の名前は?」

「クレア・アディンセルです」

「……アディンセル伯爵家の……? そうか、君が……」

ライルは一人で何やら納得すると、後に続く言葉を飲み込んだ。

その様子に、クレアは少し不安になる。

アディンセル家に、クレアという名の庶民出身の娘が入った、と貴族社会では噂になってるのかもしれない。それは事実なのだから今さら気にしないが、妾の子、という間違った情報まで流れている可能性もある。

そういえば、トシャック氏も先ほど、そんなことを言っていた。夫人からそう聞かされたのかどうかは分からないが。

自分のことは悪く言われても構わないが、母の名誉まで傷付けられたくない。

だけど、ライルにそれを尋ねて、もしそうだと言われたら、クレア自身も落ち込んでしまいそうだったので、ここは聞かない方が賢明なようだ。


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