伯爵と雇われ花嫁の偽装婚約
クレアと夫人が声のした方を振り向いたのは、ほぼ同時だった。

小部屋の入り口付近に、一人の若者が立っている。

黒のフロックコートに素材違いのウェストコート、白いシャツにダークレッドのネクタイ。

淡く煌めく金色の髪が、彼の上品さをさらに引き立てている。

……伯爵様……!

クレアは息を飲んだ。なぜ、ライルがこんな所にいるのだろう。

「やあ、クレア」

微笑んで、ライルが近付いてきた。

そして、夫人の前に立ち、片手を胸に当て、背筋を伸ばしたまま上半身を前に少し傾ける。

「アディンセル伯爵夫人でいらっしゃいますね? 以前、夜会でお見かけしたことはありますが、ご挨拶させて頂くのは初めてですね。ライル・ブラッドフォードと申します」

たったそれだけのことなのに、その流れるような優雅な動作に思わず見入ってしまう。

それは、夫人も同じようだった。少し間があって、彼女も我に返り、「え、ええ、そうですわね、初めまして」とクレアに一度も見せたことのない笑顔で答えた。

きっとあの翠緑の瞳には、相手の心を奪って硬直させてしまう効果があるのだ、とクレアは思った。

「なぜ、ブラッドフォード伯爵がこんな小汚ない店に……?」

夫人の言葉に、クレアはムッとした。

小汚ないは余計よ、これでも毎日ちゃんと掃除してるんです!

口を尖らせそうになったが、感情を抑えた。

なぜライルが突然現れたのか、その方が気になるからだ。


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