伯爵と雇われ花嫁の偽装婚約
雇用主なのだから、もっと偉そうに、上から命令してもいいはずなのに、とクレアは思う。だが、ライルは強引な言い方はしてこなかった。

それに、そんなに優しい目で頼まれたら、断れなくなってしまう。

……いいえ、これは仕事なのよ、クレア。引き受けずに、そのままここでお世話になるわけにはいかないわ。自分でそう決めたんじゃない。

「……分かりました。私で、お役に立てるとは思いませんが、出来る限り頑張ります……」

「ありがとう。では、改めてよろしく」

差し出された手を握り返したところで、ドアのノック音が聞こえ、執事のローランドと、銀製の盆にティーセットを載せた若いメイドが入ってきた。

二人が部屋の隅でお茶を出す準備をしているうちに、クレアは小声でライルに尋ねた。

「……あの、使用人の方達にも秘密なんですよね?」

「ああ。そうだけど、ローランドだけには言っておくよ。彼は有能で人を観察する力に長けているから、話さなくてもすぐにバレるだろうけどね。君も、俺が留守にしている間、誰か他に事情を知っている人間がいた方が、心強いだろう?」

「はい。……ありがとうございます」

やがて、お茶の準備が整い、クレアの前に温かい紅茶のティーカップが置かれた。用意してくれたメイドに「ありがとうございます」と言うと、にっこり笑顔で返してくれて、クレアの心も何だか温かくなった。

アディンセル邸では、クレアはメイドにさえ用事がある時以外は、まるで影のように扱われてきた。だから、こんな風に目を合わせてくれたことが、嬉しかったのだ。

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