この想いが届くまで
 軽く汗を流しバスルームを出ると、着替えを済ませた男がソファに座って横に置かれた小さな丸テーブルに置いた灰皿にタバコの灰を落としていた。
「タバコ、一本もらったよ」
 男が吸っていたタバコは化粧品を取り出す際に一緒にバッグから出した未央の私物だった。
「吸うんだ」
 未央はそうポツリと呟くと衣服を順番に身に着けていく。
 意外だと思った。男の身体からはタバコの匂いはしなかった、そう記憶していたからだ。
「久々。五年ぶりくらいかな~」
「そう、同じね。私も最近……。でもやっぱ匂いが嫌。もう辞めるから全部あなたにあげる」
 男は火がついたままのタバコを灰皿に置くとソファにもたれかかった。
「クールなんだな。昨日は死ぬんじゃないかってほど気弱く、ベッドではあんなにも淫らで……どれがほんとの顔?」
「なっ……!」
「あ、赤くなった。かわいいな」
 からかうような言い方と笑顔を向けられたけど未央はただ胸をどきどきと高鳴らせるだけで反論できなかった。無理もない。未央にとって出会って間もない男とベッドを共にしてしまうことは初めての経験だったのだから。
 未央は着替えを済ませると、荷物をまとめてコートを手に持った。そして去り際に一つ尋ねた。
「連絡先、教えてもらってもいい?」
 未央の申し出に男はふっと小さく吹き出した。
「もしかして俺に惚れた?」
「……は?」
 男は平然とそう言い放つと口角を上げたまま未央を見据える。
「悪いけど俺彼女募集してないんで。気軽に付き合えるセフレだったらいつでも。また会ってもいいよ」
 未央は無言のまま手をきつく握りしめると駆け出し、ベッドに置かれたクッションを手に取って男にめがけて思い切り投げつけた。
「誰があんたみたいなのに惚れるか! ただ、ただ病気とか、妊娠とか。そういう不測の事態に備えて聞いただけよ! 勘違いすんな!!」
 腹の底から出した声でそう言うと、最後に「馬鹿ぁ!!」と捨て台詞を吐き鼻息荒く堂々と胸を張り大股でその場を立ち去った。
 顔で受け止めたクッションをゆっくりと下ろした男は唖然とした様子で未央が立ち去っていく様子を見ていた。
「なんだあいつ……気も強い……とか。ははっ……」
 空笑いしつつ俯くとテーブルに置かれた灰皿からタバコの煙が上がっていた。何か物思いにふけるように目を伏せると、もう一度力ない笑みを浮かべた。

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