乙女野獣と毒舌天使(おまけ完結)
 杏樹は振り払われた手を見ていた。あんな拒絶は初めてだ。いつも優しく包んでくれる手が、いつも力強く引っ張ってくれる手が、自分から離れていった。

 あの時なんと言えば良かったんだろう。

 あれは、自分の母の動画が。まだ、自分が産まれる前の、今の自分と同じくらいの歳の、母だ。

 でも、話すことはまだ出来ない。嫌な思いをした犯人が捕まるまでは……これは、フランスにいたときに、警察と弁護士と約束したことだから、勝手に破ることは出来ない。

「……あの時何て言えば良かったの?」
 
 杏樹の呟きに、近くにいたなずながピクリと反応する。

「杏樹ちゃん。杏樹ちゃんは言い訳を探してるの?この人が、夜中に電話するほど、愛してる人なの?」

 急にそんなことを言われ、杏樹は、驚いた顔でなずなを見た。

「私、悠ちゃん以外に愛してるなんて言わない!だから、杏樹ちゃんの気持ちなんてこれっぽっちも分からないから!!」

 なずなは杏樹達を置き去りにし、走り去っていった。杏樹はなずなの話の意味が分からず、追いかけるに追いかけられない重い足を、エレベーターまで引きずった。

 会社の入り口にいた社員の冷ややかな視線が、無数の矢のように突き刺さった。


 雅輝は、杏樹を振り払ってしまった手を押さえた。

 何時間前まで、あんなに幸せな気持ちでいたのに、たった数時間で、その気持ちが泡のように消えてしまうなんて。自分でとった行動に驚いた。

 今までの女性たちとは、違うと信じたいけど、信じられない。いつもならスマートに"分かり会えないんだ"と思い、こんなに気持ちが荒れることはない。

 でも、杏樹だけは、杏樹にだけは、この話が本当なら裏切られたと思うだけじゃ無理そうだ。

 滅茶苦茶にしてしまいそう。今までのすべてを信じることが出来そうにない。

「「……。」」

 雅輝と悠一は無言のまま、社長室に続く廊下を歩いている。雅輝の曇った顔に、様子を窺う悠一の顔には緊張が走る。今まで、女性に裏切られた時には見たこともないほど、雅輝の表情がおかしいからだ。

「あっ。」

 社長室前に専務がいることに気がつき、二人は立ち止まった。

「専務、おはようございます。」

 雅輝が淡々と挨拶をする。専務はなぜか上機嫌で雅輝の方を軽く何回も叩く。

「おはよう、副社長。答えは出たかね?結城令嬢とは、結婚するのかい?」

 上機嫌の理由を納得した二人は、そこを曖昧に濁す。

「私はどちらでも構わんよ?結婚すれば会社は安泰、私も仲人として鼻が高い。結婚しなければ結城さんが、株は私に譲ってもいい、社長の椅子を用意してくれると言っている。……だから、どちらでも構わんよ?」

 それだけ言い残し、高笑いしながら、去っていく後ろ姿に雅輝は舌打ちをした。
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