【第二章】狂気の王と永遠の愛(接吻)を
 椅子に腰をおろしたダルドは分厚い見聞録を開く。歴史の感じる匂いを纏ったページを彼の繊細な指先で流れるように捲られていく。少しの隙間さえも惜しむようにびっしりと書き連なった文字は、時間があれば熟読したくなるほどに興味深いものであることをダルドは知っている。
 だが、いまはそんな時間はない。
 ただ刀という文字を目指して一心不乱にページを捲り続ける。

 そうして、ようやく見つけたそのページからダルドが衝撃を受けるのは日も暮れた数時間後のことだった――。

 カイやアレス、ラビットと戯れていたアオイのもとに数人の女官や侍女がやってきた。

「姫様、そろそろ湯殿に参りましょう」

 母親のようにあたたかな眼差しで視線を合わせた女官にアオイは顔を上げたが、いつも自分を抱いて湯浴みをしてくれる父親の姿はやはりない。

「……うん」

 父親がまだ帰ってきていないことを理解したアオイは諦めたように立ち上がる。
 アオイのどんな世話もキュリオ自ら買って出ているため、よほどのことがない限りキュリオ以外の者とアオイが湯殿に向かうことはない。しかし、このようにキュリオが公務に赴いている夜は女官らがアオイを湯浴みさせることとなるため慣れておく必要があった。

「アオイ姫様、俺たちも途中まで一緒に行きます!」

「?」

「手を繋いで行きましょう」

「うんっ」

 カイとアレスに挟まれ、両手をそれぞれに繋いでもらい。少し背の高いふたりを見上げると、優しい笑顔に心がじんわりと温かくなる。
 アオイの寂しさは痛いほどわかる。もはや一緒にいなければ生きていけないほどにキュリオとアオイは互いを必要としているのは誰の目にも明らかだったため、こうして離れ離れになってしまったときの寂しさはいかほどのものか……。

「今日の夕食はなんでしょうね! アオイ姫様は何がお好きですか?」

 頬を染めながら嬉しそうに握りしめた手を前後に揺らしてアオイに話しかけるカイ。

「フユーツ!」

 へへっと破顔したアオイの言葉を駆使してもまだきちんと言えないその言葉さえも愛らしく、しかしそんな言葉の意味も皆に通じているのは普段から彼女から目を離すまいと常に見守り、傍に仕えてくれる皆の深い愛に他ならない。

「そういえばアオイ様はフルーツがお好きでしたね。そうだ……、フルーツゼリーなら簡単ですし、明日作ってみませんか?」

 アレスの提案に目を輝かせたアオイが嬉しそうに飛び跳ねた。

「うんっ!」

 場を盛り上げてくれるカイに、知的なアレス。彼らはそれぞれの役割を意識しながらアオイがいかに楽しく過ごせるかを考えて行動している。
 数歩遅れてその光景を優しく見守っている女官らはアレスの提案に頷きながら、スムーズに事が進むよう頭の中では念入りに対策を練っている。
 
 最上階に続く階段が間もなくのところで、アオイと手を繋いでいたカイとアレスが立ち止まって告げる。

「アオイ姫様、俺たちはここから先に行けません。また後でお会いしましょう」

 握っていたアオイの手をもう片方の手で包んだカイが視線を合わせたあと離れた。

「……」

 離れた手をじっと見つめたアオイは、また逆の方向から話しかけられ向き直る。

「じきにキュリオ様もダルド様も御戻りになられると思いますので、アオイ様は湯殿でごゆっくりなさってくださいね」

 アオイが不安にならないよう努めて明るく振る舞うアレスも握っていた手を優しく離した。

「…………」

「参りましょう姫様」

 女官に体を抱きあげられたアオイは彼女の肩越しに小さくなっていくアレスとカイを見つめる。
 笑顔のまま手を振るふたりに小さく振り返したアオイだったが……

「アエス、カイ……いかない?」

 アオイが言いたいことはよくわかる。
 何故アレスとカイは一緒に来れないのかとアオイは聞いているのだ。
 
「姫様……キュリオ様はとても姫様を愛していらっしゃいます。
本当は何もかも姫様のお世話のすべてはキュリオ様自らがされたいとお思いですわ。……それでもキュリオ様は御多忙ですから、代わりにわたくしたちが……」

「……?」

 あまりに長い言葉はアオイには理解が難しい。それを知っている女官もどう説明すれば伝わるか頭を悩ませている。

「ええと……、なんとお伝えすれば良いかしら……」

「つまりは! キュリオ様は姫様が大事過ぎて小さな殿方も御近づけになりたくないのですよっ」

 そう鼻息荒く言い切ったのは後方からついてきた侍女だ。
 
「そうね。姫様が大事ですから、無防備になる寝所での御姿は……特に誰の目にも晒したくないのだと思いますわ」

「……」

(……だいじだから……)

 綺麗な女官らの顔を見つめながら自分に問いかけるアオイはまだあまりに小さすぎてその意味がよくわからずにいる。
 されるがままに体を清められるアオイは水面に映る月の姿を探して顔をあげ、欠けた月を見上げてキュリオを想う。

『今日もよく遊んでいたね。怪我ないかい?』

 向かい合うようにキュリオの膝に腰をおろしているアオイの体を長い指が滑るように隅々まで確かめていく。
 くすぐったいような、心地良いような感覚がアオイを包むとやがて慈愛に満ちたキュリオの眼差しが降り注いで抱きしめられる。

 いつもの触れ合いのなかで、今夜も彼女の成長の証をその目や指先に感じることができたキュリオは嬉しそうに微笑む。

『体が引き締まってきたようだね。カイやアレスとどこで遊んでいたんだい?』

『きのぼい!』

『きのぼい……木登りか』

 キラキラとした表情を向けられ、それは危険だと咎めてしまうのは可哀そうだとキュリオなりの優しさが顔をみせた。

(といってもアオイはまだ登れないだろうから真似事をするだけだろうな……だが、念のため護衛を増やすか)

 子供たちの遊びを邪魔しないよう、常に数人の護衛がその身を隠しながらアオイたちを見守っているため心配はいらないが、あまりに危険を伴うような遊びは止めさせるか護衛を増やすしかない。

『私がずっと傍に居てお前を見守りたいのが本音だが……ああ、あのふたりは私が知らないお前の顔を幾度も目にしているのだろうな……』

 抱きしめられた腕が柔らかく開放されると切なく瞳を揺らしたキュリオと視線が絡んだ――。 


 ――アオイも小さいながらに理解しているつもりだ。皆に必要とされている父親がどれほど大切な存在であるか。そして他に代わりはいない、唯一無二の存在。
 わかっていても心はキュリオを求めてしまう。
 
(おとうちゃま……あいたい)

 アオイの想いはキュリオにちゃんと届いていた。それを目撃したのが先ほどのエリザである。
 祈るような面持ちで佇むアオイに女官は一刻も早い主の帰還を望んだが、今宵のキュリオに思わぬアクシデントが降りかかってしまうのは……それから間もなくのことだった。
< 153 / 168 >

この作品をシェア

pagetop