~団塊世代が育った里山から~
厳冬を越す暮らしの知恵
枯れ葉を北風が振るいおとした大樹は枝先が太く細い線となって、大きな竹ボウキを逆さに立てて空に丸く広げたような姿になるのです。
鉛色で重く見える空から、雪がユラユラと桜の花びらが舞い落ちて来たように、裸になった木々の枝先にまとわり付いて降り始めるのです。
凍り付いた大地に次から次と雪が積み重なりどこかしこが真っ白になると、春までとけることがない根雪になって、これから始まる寒く長い冬の閉ざした生活を覚悟するのです。
降り積もる雪が深まって里山一帯が埋もれる閉鎖的な生活は、大人の仕事や子供たちの遊びの行動半径を狭めて、行商人も来なくなって保存をした山菜や野菜を食べる、半自給自足の生活を余儀なくする冬将軍に耐えながら家内作業をするのです。
農作業を取り上げる約半年間は、稲ワラを使ってムシロ「ワラの敷物」やミノ「ワラの雨合羽」コンゴ「ワラの長靴」を作りながら、農耕で使う牛馬やニワトリと同居するのです。
雪の晴れ間に長いハシ子段をカヤブキ屋根のグシ「高い棟木」までかけて、屋根の頂点から回りながら順番に落とす雪降ろしは、降りやむまで四回から六回くらいの頻度で行う重労働なのです。
家を守る雪降ろしのできる長男が家庭に残って、次男や三男は家庭の口減らしと現金を得るために、雪の降らない高度成長期の始まった都会へ出稼ぎに行くのです。
春まで季節労働者として働いて現金を得た次男や三男は、雪が消えて農作業の始まる前までに都会のお土産話しを持って帰ってくるのです。
三月に入って山の神の祭りが終わって降る雪も落ちつき出すと、昼と夜の寒暖の差で積もった雪が締まり埋もれなくなった雪野原に、カンジキを着けて自由に歩けるように成るのです。
メンパ「木の弁当箱」にご飯をギッシリと詰めて、久々の雪の深い奥山に入って炭焼き小屋にたどり着き雪に埋もれた小屋を掘り起こして、久々にベト「土」の匂いを嗅いで春を感じながら何日も泊まって炭焼きをするのです。
雪のない時期に切り集めた丸太を炭にして、カヤで編んだ炭俵に詰めて雪ソリで運び業者に売るのです。
貧しい農家は収穫物を農協に売ってわずかな現金に換えるのですが、家族全員を賄うだけの生活費には全くたりなくて米や野菜を多く食べながら苦しい暮らしをするのです。
ひよくな田んぼや畑に農薬を使わない農業は、天候や災害に病害虫の影響でその年によって収穫量が良い時もあれば悪い時もあるのです。
夏の出穂期に天候不順が続いてコメの収穫量が多く望めないと判断した主婦は、迎える冬を家族が飢えずにどうやって食いつなぐかを早々と考え出すのです。
収穫の少ない米を多くの現金に換えるために自家消費米をギリギリに残して、たりない分はソバや小麦に頼ることにして多くのコメを農協に売るのです。
残した自家消費米を来年の秋まで食いつなぐためには、家族にヒモジイ思いをさせずにコメの消費量を少なくして満腹感を与えるかが主婦の課題なのです。
コメの消費をおさえるために考えたご飯は、残りご飯のヒヤマンマ「冷えご飯」を多量の水で煮て増やすオヨズケ「重湯」と、オッチョ「ミソ汁」の汁と多くの野菜を煮込んで増やすオジャ「雑炊」で量を節約するのです。
そんな水分の多いご飯に飽きると麦や大豆の多く入ったご飯や、手間のかかる根菜類と山菜を煮て混ぜ込むご飯「カテメシ」があるのです。
節約にはそれだけではなくて三度の食事で白いご飯を多く食べないように、売り物にならなかったコメを加工してコビリ「間食」を作るのです。
米選機がはじいたイリゴ「未成熟米」を粉にして、水で練って団子のなかにミソやツケ物に小豆アンなどを入れて、ヨロリ「いろり」で焼いた焼きもちを作るのです。
空腹をコビリでいやす焼きもちの具に、動物性たんぱく質の塩イワシやイカの塩辛が入っている物は上等品なのです。
コビリの代表に餅があって、大豆や黒豆を炒ってつき立ての餅に混ぜ込んで、寒風で乾燥させてからオキ「おき火」で焼いたり菜種油で揚げたりして食べるのです。
手をかけたさまざまなコビリは隣近所の人たちを呼び集めて、オチャナンコ「お茶のみ」をしながら世間話をするのもひとつの娯楽で、近所の人とのコミュニュケーションの場所なのです。
主婦はいろいろと考えたコメの節約で余りそうな余裕ができたら、「アマッテル コメ ネェカネェ~タカク カウデネェ」と、やって来るヤミコメ屋へ売って現金にして月に何回か来る行商人から塩蔵した魚類や育ち盛りの子供たちの衣服を買うのです。
枯れ葉を北風が振るいおとした大樹は枝先が太く細い線となって、大きな竹ボウキを逆さに立てて空に丸く広げたような姿になるのです。
鉛色で重く見える空から、雪がユラユラと桜の花びらが舞い落ちて来たように、裸になった木々の枝先にまとわり付いて降り始めるのです。
凍り付いた大地に次から次と雪が積み重なりどこかしこが真っ白になると、春までとけることがない根雪になって、これから始まる寒く長い冬の閉ざした生活を覚悟するのです。
降り積もる雪が深まって里山一帯が埋もれる閉鎖的な生活は、大人の仕事や子供たちの遊びの行動半径を狭めて、行商人も来なくなって保存をした山菜や野菜を食べる、半自給自足の生活を余儀なくする冬将軍に耐えながら家内作業をするのです。
農作業を取り上げる約半年間は、稲ワラを使ってムシロ「ワラの敷物」やミノ「ワラの雨合羽」コンゴ「ワラの長靴」を作りながら、農耕で使う牛馬やニワトリと同居するのです。
雪の晴れ間に長いハシ子段をカヤブキ屋根のグシ「高い棟木」までかけて、屋根の頂点から回りながら順番に落とす雪降ろしは、降りやむまで四回から六回くらいの頻度で行う重労働なのです。
家を守る雪降ろしのできる長男が家庭に残って、次男や三男は家庭の口減らしと現金を得るために、雪の降らない高度成長期の始まった都会へ出稼ぎに行くのです。
春まで季節労働者として働いて現金を得た次男や三男は、雪が消えて農作業の始まる前までに都会のお土産話しを持って帰ってくるのです。
三月に入って山の神の祭りが終わって降る雪も落ちつき出すと、昼と夜の寒暖の差で積もった雪が締まり埋もれなくなった雪野原に、カンジキを着けて自由に歩けるように成るのです。
メンパ「木の弁当箱」にご飯をギッシリと詰めて、久々の雪の深い奥山に入って炭焼き小屋にたどり着き雪に埋もれた小屋を掘り起こして、久々にベト「土」の匂いを嗅いで春を感じながら何日も泊まって炭焼きをするのです。
雪のない時期に切り集めた丸太を炭にして、カヤで編んだ炭俵に詰めて雪ソリで運び業者に売るのです。
貧しい農家は収穫物を農協に売ってわずかな現金に換えるのですが、家族全員を賄うだけの生活費には全くたりなくて米や野菜を多く食べながら苦しい暮らしをするのです。
ひよくな田んぼや畑に農薬を使わない農業は、天候や災害に病害虫の影響でその年によって収穫量が良い時もあれば悪い時もあるのです。
夏の出穂期に天候不順が続いてコメの収穫量が多く望めないと判断した主婦は、迎える冬を家族が飢えずにどうやって食いつなぐかを早々と考え出すのです。
収穫の少ない米を多くの現金に換えるために自家消費米をギリギリに残して、たりない分はソバや小麦に頼ることにして多くのコメを農協に売るのです。
残した自家消費米を来年の秋まで食いつなぐためには、家族にヒモジイ思いをさせずにコメの消費量を少なくして満腹感を与えるかが主婦の課題なのです。
コメの消費をおさえるために考えたご飯は、残りご飯のヒヤマンマ「冷えご飯」を多量の水で煮て増やすオヨズケ「重湯」と、オッチョ「ミソ汁」の汁と多くの野菜を煮込んで増やすオジャ「雑炊」で量を節約するのです。
そんな水分の多いご飯に飽きると麦や大豆の多く入ったご飯や、手間のかかる根菜類と山菜を煮て混ぜ込むご飯「カテメシ」があるのです。
節約にはそれだけではなくて三度の食事で白いご飯を多く食べないように、売り物にならなかったコメを加工してコビリ「間食」を作るのです。
米選機がはじいたイリゴ「未成熟米」を粉にして、水で練って団子のなかにミソやツケ物に小豆アンなどを入れて、ヨロリ「いろり」で焼いた焼きもちを作るのです。
空腹をコビリでいやす焼きもちの具に、動物性たんぱく質の塩イワシやイカの塩辛が入っている物は上等品なのです。
コビリの代表に餅があって、大豆や黒豆を炒ってつき立ての餅に混ぜ込んで、寒風で乾燥させてからオキ「おき火」で焼いたり菜種油で揚げたりして食べるのです。
手をかけたさまざまなコビリは隣近所の人たちを呼び集めて、オチャナンコ「お茶のみ」をしながら世間話をするのもひとつの娯楽で、近所の人とのコミュニュケーションの場所なのです。
主婦はいろいろと考えたコメの節約で余りそうな余裕ができたら、「アマッテル コメ ネェカネェ~タカク カウデネェ」と、やって来るヤミコメ屋へ売って現金にして月に何回か来る行商人から塩蔵した魚類や育ち盛りの子供たちの衣服を買うのです。