~団塊世代が育った里山から~
里山の奇祭
千数百年の歴史を経た里山の神社は、人々が崇拝してやまないひと際に高く天をつくようにそびえる山を、真言密教の修験者たちが霊山と仰いで山頂に奥の院をマツリ、神殿を麓に建立した由緒ある里宮神社なのです。
トテケッコー「タチアオイ」の花が咲きだすと、神社の門前町で宿坊と宿場で繁栄してきた里山では、七月中旬に奇祭と呼ぶ伝統のある夏祭りをするのです。
祭り初日のあさの薄っすらと高原の霧が立ち込めるご神木の下で、神社三尊に奉納する棒使いの演武は本殿の守りと点在する神社を戦乱から守るために、いにしえの修行僧が宝蔵院流棒術を修行で得て帰って来て、僧兵集団の組織をつくってヤリと太刀にナギナタを駆使して敵と戦ってきた基本的な武術の型を、今に棒使いと呼び方を変えて仮の山伏姿になった若者が、代々に渡って引き継いで祭りの二日間だけ演武を大衆に披露するのです。
棒使いを奉納する前の儀式で白装束を着て錦の陣羽織をはおった仮山伏の若者が、かつての修行僧が祈りの度に振り下ろすシャクジョウの石付きで床板に小さな穴が無数に開いた拝殿に、アグラをかいて両拳を膝の上に乗せて厳かに座っているのです。
多数の若者が見守るなかで宝蔵院の院主が前に進み出て、両手の親指一本を床板につけて頭を垂れている仮山伏たちに、厳かにサァ~サァ~と幣を一人ひとりに振ってオハライをするのです。
院主からオハライを受けた仮山伏は、若い竹の棒を拝殿の床板にビシッビシッと数回打って、静まり返った境内に響かせてから不動明王の真言「ノウマク サンマン ダ バザラダン センダ マカロ シャダ ソワタヤ ウンタラタ カンマン」と唱えてから、本殿の奥に鎮座する三尊のご神体に玉串をささげるのです。
本殿前の演武場で仮山伏たちは、上と下のグループ二手に分かれて床几に腰を下ろして、一人ずつ中央に進み出て両者が一対となって向き合い、ソンキョの姿勢でそれぞれの武器を手渡しするのを待つのです。
緊張する仮山伏たちが演じる武術の型は、実際に戦う迫力のある太刀とナギナタにヤリを組み合わせた二十二の型を、近郷近在の人たちに伝統ある武術を凛々しい姿で演武するのです。
ご神木のウッソウとした杉の木立下で、仮山伏がヤァッ~ トォッ~と気合の入った掛け声を発して、それぞれの武器が激しくぶつかる音が ガチン カン カァ~ン ガチャ ガチャンと境内に響き渡って祭りが始まるのです。
ホオの木を何本も束ねてイカダに組んだ上に乗せたマツ「柱松(まつ)」を、神社を中心にして上と下の集落にわかれて老若男女が引っ張るマツ引きが奇祭と呼ぶ由縁の火祭りなのです。
大昔に霊山の山頂で苦行する修験者が摩か不思議な体験をして、悟りを得た数々のゲン力を示す儀礼と言い伝えているのです。
御手洗池に架かる太鼓橋の上でカミシモを着てジンガサをかぶった代官を真ん中にして、代官が下げた両手の小指と両脇に並ぶ仮山伏の小指をコヨリで結んでいて、いよいよ儀式が始まりそうになると代官が頭上へ高く両腕を伸ばすのです。
仮山伏は空いた片手で鈴懸の裾にヒウチ石を擦ってすぐに火花が発するように暖めていると、期が極まったと判断した代官が両腕を勢いよく振り下ろして、コヨリが切れた仮山伏は俊敏に上と下のマツ「柱松(まつ)」へ駆け付けるのです。
マツ「柱松(まつ)」には扇状の和紙に日の丸が描かいた大幣が取り付けてあって、駆け付けた仮山伏はホオの木を足掛かりにしてマツ「柱松(まつ)」に飛び乗って、大幣の根もとで風をよけるようにしゃがみ込み火をつけようとするのです。
ヒウチ石を擦りたたいて火花を飛び散らせ大幣の厚い和紙はなかなか燃え上がらないで、上のマツ「柱松(まつ)」なのか、下のマツ「柱松(まつ)」なのか、人々が見守るなかでやがて初夏の空に紅レンの炎が上がるのです。
大幣にどっちが早く燃え上がるか点火競争に勝った方が、祝い歌の「メェ~デェタァ~メデェタァ~ノォ~ワ~カマツゥ サァ~マァヨォ~」と唄いながら、くくり付けた長い縄で多くの老若男女が引く豊作祈願の吉兆を占う素朴な儀式なのです。
ミコシの屋根は神殿を模した深紅の布が張ってあって、屋根紋に菌糸で縫い込み四方に伸びるワラビ手の四点が集まる最頂部で金光した水煙の宝珠が、ミコシを揺するたびに右に左に傾いてミコシ殿から出てくるのです。
本殿の奥から院主が、神を人の目にさらさないように着ている装束のふところに入れソデで隠して、多くの若者が院主を囲み守ってミコシの唐戸の奥深くに安置するのです。
ミコシの大輪の下にある花棒と横棒に担ぎ棒をロープで隙間なくキッチリと巻いて、清めのお神酒を結合場所に振りかけるのです。
台に載ったミコシはおハライを受けた後に若者たちの掛け声で肩に担ぎ、神殿のまわりを回ってから、本殿の正面石畳の上で「ヤァ~ヤァ~ヤァ~」の掛け声で三回サシテ「高く上げる」から本殿を後にするのです。
本殿前の急しゅんな十六石段からミコシを下ろすには、前の担ぎ手は腕を伸ばしてささげ上げ、後ろは腰を折って石段に担ぎ棒を擦りながら前後に傾かないように水平に下ろすのです。
参道に出たミコシは担ぎ棒を腰の位置に固定した高さを低くして「ワァッ~セェ~ワァッ~セェ~ワァッ~セェ~」と歩調を合わせユックリと運んで、参道脇にビッシリと並ぶ露天商と小競り合いしてせり出た屋台の屋根を交わしながら進むのです。
大鳥居をくぐって万灯を過ぎて結界の地を出たミコシは、人々が街道に出て待っている各集落へホラ貝を吹き太鼓をたたいて傘持ちに傘を広げさせ馬に乗った院主を先頭に、神主や代官と白鳥に仮山伏の行列が続いたあとに、お神酒をあおった若者が担いで渡御していくのです。
渡御途中では善男善女が手を合わせてオサイ銭をあげるのですが、由緒と伝統のある祭りを知らないよそから来た人が二階から見下ろしていると、怒った神は担ぐ若者の意思に反して、担ぎ棒が玄関に向かってバリバリと突っ込んでいくのです。
学校が祭りで休みになったあさの早くから神社の境内から空気を震わせて聞こえる大太鼓のドォ~ン ドォ~ンと響く重低音を聞くと、祭り小遣いをもらった子供たちの気持ちが落ち着かなくなるのです。
母親は忙しそうに親戚を呼んでふるまう、ササズシや山菜の煮物を作るのに昨夜から孤軍奮戦ででき上る郷土料理のササズシは、木の箱にササの葉を底に敷いてスシ飯をある程度の厚さに入れ、山竹の子や各種山菜煮付けなど味自慢の具材を、一段毎に違えてスシ飯に乗せて何段も重ねるのです。
重ねた具材とスシ飯が箱にイッパイの高さになったら、押し板にオモ石をのせて押し固めて箱から抜いて四角い形に切りそろえて重箱に盛り付けるのです。
父親はあさから神棚に上がったお神酒をのみ、ご機嫌でだれか酒の相手をしてくれる知人が訪ねて来ないか茶の間から街道を歩く人の姿を見ながら、茶飲み茶ワンへ注いだ冷酒をなめるようにのんでいるのです。
神社へ続く街道には、細い丸太の旗ザオが屋根より高く立っていて、最上部にトテケッコー「タチアオイ」や季節の花がくくり付けてあるのです。
旗ザオの最上部からつり下げた木綿布を五反使って墨で文字を書いたノボリが、初夏の真っ青な空でバタバタと風があおっているのです。
祭を主導する若者たちが長じか足袋におそろいのタンパンに祭り法被を羽織って、頭に豆絞りの手拭いで鉢巻きをして急ぎ足で神社へ向かっているのです。
参道の両脇には露天商の屋台が隙間なく立ち並んで、トコロテンや綿あめにアイスキャンデェーなどの食べ物にセルロイドやブリキのオモチャを売っていて、金魚すくいやミドリカメにヒヨコを売る店もあって往来する人の体が触れ合うほどの人ごみなのです。
神社の入り口にいくつものチョウチンがぶら下がる万灯の横で、膝まである長い白衣を着てヨレヨレの軍帽をかぶって行きかう人の前で、アコーディオンやハーモニカで祭りには不似合いな曲を物悲しく弾いて歌っている人がいるのです。
白衣の人は胸の前や足元に白い箱が置いてあって、戦争で爆弾の直撃を受けて手足を失い復員後働けないので、生活の援助を求めて多く人の集まる場所で訴えているのです。
子供たちからの見る目は片足や片腕のない人たちが何で祭りのめでたい日に、楽器をひきながら立っているのが不思議で異様な怖さに映るのです。
松葉ヅエで一本足立ちの格好や、白い着物のソデがダラァ~ンと垂れ下がっているのを見ると、ショゥイ軍人は戦争の恐ろしさを語らず不自由な体や音楽と歌で訴えているように思うのです。
悲しげな音楽と歌は、祭りで楽しい子供たちの心を落ち込みさせている一方で、参詣に訪れる人々の心へ無残な戦争の傷跡を思い起こさせているのです。
にぎやかな参道を抜けて大鳥居をくぐり石段を登ると、そこは俗のなる領域から離れて神々が住む聖のなる領域になって、本殿に続く参道の周りにはウッソウとした杉の古木が何百本もあって、粗削りの石畳が続く脇に石のトウロウがボーっとした明るさでともっているのです。
太鼓橋に架かる御手洗池には、いにしえの人が石で彫った豊作吉祥の神と尊ぶ亀石が、水面に浮いて南西方向に向かって水面を泳いでいるかのように見えるのです。
十六段の石段を登り切った広大な敷地に建つ本殿は、周りを杉の神木が守って重厚な権現造りで、神殿や幣殿に拝殿が一棟になった総ケヤキ造りなのです。
カモ居の欄間や唐破風に彩色のない精巧な彫刻はなかなか見事で、竜や七福神が彫ってあるなかでも向拝内部に立体的なホウオウが彫ってあるのです。
境内にある他の社殿は海神サン龍神サンの金比羅さんと弁財天が有って、本殿と同じ並びの道脇に奥の院にあった三尊のご神体を里へ降ろしたお堂があるのです。
修験者が霊山へ修行に向かう道の両脇には、平安末期から鎌倉時代に彫った石仏が点在していて、厳しい荒行に向かう修験者の安全を見守っていたのです。
下半身を地中に埋め込んで胸から上に出た如来像は、今にも地中から立ち上がってくるように見えていたのが、長い年月で風化が著しいので一カ所に集めたのです。
山頂からご神体を移したお堂の横に、修験者の道から運んだ何体もの石仏が静かに並んで、平安鎌倉の大昔を思い出して覆堂のなかでたたずんでいるのです。