イジワル御曹司に愛されています
「猛勉強というのは、本当なんだね」

「恐れ入ります。勉強したところで、所詮素人ではあるんですが」

「いや、丁寧に知識を得ているのが、見ればわかるよ。きみのような人が運営側にいてくれるのなら、当日も安心だ」


話し相手が言葉を詰まらせたことに、先生はすぐ気がついた。促すような視線をもらって、都筑くんが椅子の上で姿勢を正す。


「申し訳ありません、僕は私事都合で、今月いっぱいで今の会社を辞めます。展示会の開催まで、お供できないんです」

「…ほう」


先生の目には、抑制の効いた残念さが浮かんだ。


「僕を信じてくださったのなら、僕が信頼している、千野を信じてください、先生。彼女の知識と感性が、今回のセミナーを構築したんです」


私は思わず、都筑くんを見た。彼の視線は先生に向けられていて、私のほうを見てくれはしない。

そんな私たちを見つめ、先生がちらっと笑った。


「きみに言われなくても、私は協会には信頼を置いているし、ここの千野くんに至っては、新人のころから仕事ぶりを見てきている」


都筑くんが恥ずかしそうに「そうか、そうですよね」とうなずく。


「失礼しました、今さらなことを」

「いや、気持ちよく聞いたよ。きみの言う通り、今後は千野くんを全面的に信じる。先日のように、それを忘れかけたら、きみのことを思い出そう」


ゆったりとしたデスクチェアが回転し、先生が身体ごとこちらに向き直り、都筑くんに右手を差し出した。


「どうもありがとう。どこへ行くのか知らないが、きみなら健闘するだろう」


都筑くんは、驚いたようにその手を見て、ためらいがちに右手を出し。骨ばった手に力強く握られたとき、照れくさそうに、嬉しそうに笑った。




「送別会?」

「松原さんが、ぜひにって。忙しくなければなんだけど…」

「大丈夫だよ、部内と同期の送別会があるだけだから、ほかはあいてる」

「よかった、じゃあセッティングするね」


駅までの帰り道、夕暮れてきた街並みを背に、都筑くんがにこりと笑う。

全然よくないよ、と言ったのと反対のことを思った。まったくよくない。そうだよ、都筑くんは今月で、いなくなってしまうんだった。あと半月と少しで。
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