イジワル御曹司に愛されています
「こんな状況で、お父さんの会社入るの…大丈夫?」

「むしろ今しかないと思ってる。俺が入ることが叔父にばれたらまずいなと思ってたんだけど、たぶん今、向こうはそれどころじゃない」


きっぱりとした声には、迷いも怯えもない。

駅が見えてくると、焦りが増した。お互い会社に戻るから、ここから逆方向。いったいこの後、何回会える? 一回? 二回?

肩にかけたバッグの柄を、ぎゅっと握った。

都筑くん、私ね。これまで、あと一歩踏み出せていたら、全然違う世界を見ることができたんじゃないかって思ったことが、何度もあった。いつもいつも、肝心なところでもなんでもないところでも、"あと一歩"がすごく、難しいの。

踏み出せなかった一歩が積み重なって、今の自分になっているんだって、ずっと思っていた。現実と折り合いをつけるのがうまくなっただけで、高校のころから私は、なにも変わっていない。

言いたいときに言えなくて。聞いてくれる人にしか話しかけられなくて。

たった一歩。

それを踏み出せたら、別の場所に行ける。

ずっとそう思っていたの。


「先生の件もきれいに済んだし、思い残すところはないな。俺、今回の仕事、これまでの会社人生の中でも、かなり面白かったよ」

「そうなんだ、嬉しい」

「後任も決まったから、今度連れてくな」

「都筑くん」


いつものように、「ん?」とこちらを見る。その顔が軽い驚きの表情を作った。私はきっと、緊張に強張っているんだろう。

一歩。たったの一歩。


「あの、びっくりしないでほしいんだけど、でもすると思うんだけど」


自分であきれるくらいまとまらない。

都筑くんは私に合わせて足を止めてくれていて、小ぢんまりした駅の改札から出てくる人が、時折私たちの背後を通り過ぎる。

一歩。


「私、あの…都筑くんのこと」


震えてきて、思わず片手の甲を口元に当てた。そうするとますます自分の震えを意識するはめになり、自分の手に隠れるように、ぎゅっと目をつぶってうつむく。
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